16.祝福のワイン
セルジュはジョゼの言葉を聞くや青くなり、
「やはり、ワインに毒が──」
と呟く。ジョゼは目の前の札束を引ったくるようにして懐に押し込むと、
「帰って!」
と顔を赤くして叫んだ。そしてセルジュを睨むと、
「あの後、シャトー・ギャロワにマルクがクレームを入れたら、あの日うちに渡したワインは急進党が差し入れたものだったと判明したの。シャトー・ギャロワはいつもオマケのワインをつけてくれるから、本数が多い分には誰も気にしなかった。それで、フルニエ城に毒が紛れ込んだのよ!」
と凄む。セルジュは慌てて立ち上がった。
「いや、ちょっと待ってくれ!今の狼狽はそれを知っていたからではなく──順を追って説明するから、落ち着いて聞いて欲しい。あの日、私は急進党幹部から〝あの城でワインを出されても、絶対に飲むな〟とだけ忠告されていた。私はてっきり君のことをフェドー議員と同じくスパイだと思っていたから、毒入りワインでも出して来るのだと警戒し、党の忠告を守って口をつけなかったんだ」
ジョゼは怒りに震え肩で息をしていたが、
「……では、あなたがあの毒入りワインをシャトー・ギャロワに持ち込んだわけではないのね?」
と問う。セルジュは頭を掻きながら頷いた。
「ジョゼもご存知の通り……多分私がそんなことをしていたら、明らかにうろたえてボロが出ただろうから……詳しくは分からないけど、別の党員の仕業かと」
「うーん、確かにね」
彼の演技の下手さ加減について、ジョゼは悲しいほどに承知しているのだった。
「急進党は、どこまで私の情報を得ているの?」
セルジュはソファに座り直すと、覚悟を決めたような顔でジョゼにこう告げる。
「急進党には、君の出自に疑問を持つ者が複数いる。フェドー議員と同じく、スパイなのではないかと。種明かしをしてしまえば、だから幹部たちはあえて私を君の元へ行かせた。フェドーとジョゼ、スパイの二重捕りを狙ったわけだ。しかし後日改めて調査したところ、君は養成されたスパイなどでは決してなく、戦火の中拾われた戦争孤児だと……」
「そうよ、私は戦争孤児。遊牧民の、普通の家庭で育った……それ以上でも、それ以下でもないわ。多言語を話せるのも、子どもの頃から親に貿易拠点をあちこち連れ回されていたからよ」
セルジュはじっと何か考え込んでから問う。
「例の毒入りワインとやらは、飲む直前で捨てたのか?」
「そうよ。だって、甘い毒の香りがしたんだもの。イエロー・ジャスミンのね」
「ずいぶん鼻が効くんだな」
「私はあらゆる毒に詳しいの。そうでないと、遊牧民は各地のおかしな草やキノコにやられてすぐ死んでしまうわ」
「……なるほど」
セルジュは静かに頷く。ジョゼはむくれた。
「……セルジュったら、まるで人ごとみたいね。下手をしたら私、あなたの仲間に殺されるところだったのよ!?」
「そうは言うけれど、まさか党が君の毒殺を画策していたとは思わないじゃないか」
「何よ、まるで人ごとみたいに……!」
ジョゼは叫びながら、目尻に浮んで来る涙を拭った。
「あの朝、あれを飲んで私が死んだら、あなたはどう思ったの?スパイが死んで、喜んだのかしら?」
セルジュは驚いて首を横に振った。
「そんなわけない!」
それから少し慌てて、ためらいながら、
「……ジョゼ」
と呼びかけ、立ち上がった。
「これからの君の立場は、必ず私が守る。約束するよ。だから──今後も私に力を貸して欲しい」
「まだ私を利用する気なの?もう騙されないわ……帰ってよ」
「じゃあ一度、急進党本部へ来てみないか?」
ジョゼはきょとんとする。
「本部?」
「何なら、党員になるかい」
「えっ。女でもなれるの?」
「一応、党則によると党員になるのに性別は不問だ。一定額の党費を払えば、党員資格を得られる。そうすれば、急進党が君を攻撃するようなことはなくなる。どうだろう?」
ジョゼは彼の提案についてしばらく考えてから、憎々しげに言う。
「分かった。寄付金が欲しいだけなんでしょう。女性参政権をちらつかせて、お金を引っ張り出そうとしているんだわ」
「先読みし過ぎだよ。あの……」
セルジュはおずおずと手を差し出した。
「君の胆力、銃の腕、経営手腕、それに推理力。今回の事件で、私は君に心底惚れ込んだ」
「えっ?〝惚れ〟……?」
ジョゼは一瞬だけその単語に胸をときめかせたが、
「君なら、政治で天下を獲れる!」
とセルジュに肩を掴まれ、「おや」と怪訝な顔になった。
「どういうこと?私、女よ。天下を獲れるわけ……」
「私は本気だ。急進党が女性参政権を実現した暁には、君を党首にしたい。そしていつかこの国の首相を務めて欲しい」
「……奇想天外なルート過ぎない?」
「君がその気になってくれたら、私はそのための協力は惜しまないつもりだ。正直、今の議員は引退爺の名誉職みたいになっていて、国の命運を握っている覚悟に欠けているんだ。小遣い欲しさにスパイをやっていたフェドー議員のような連中がきっとまだ議会に沢山いるはずだ。ああいう連中を、我々のような若い力で一掃しなければならない」
ジョゼは面倒そうに頭をボリボリと掻いてから、
「なら……もう私を毒殺しないって、約束してくれる?」
「ああ、もうしない……というか、させない」
「じゃあ、その覚悟を見せてよ」
「……覚悟?」
ジョゼは、部屋の隅で二人の話を聞いている執事に声をかけた。
「契約書作成ツールを一式持って来てちょうだい」
「はい、かしこまりました」
セルジュは執事を待ちながら、言葉を漏らした。
「……まさか、婚約じゃないよな?」
「違うわよ」
執事がトレーにごちゃごちゃと筆記用具を積んで持って来た。
ジョゼはそこに、貴族顔負けの美しい字でこう書き連ねた。
〝ジョゼ不殺の誓い〟
〝これを破りし契約者は、資産を全てフルニエ城の主に明け渡す〟
セルジュはそれを読んでから、
「君が殺されたら、私の財産が次のフルニエ城の主に譲渡されるということ?」
「そういうことよ」
「待て。そしたら、私が君を全力で守らなくてはならなくなる──」
「はい?あなたさっき、〝私が君を守る〟って言ったわよね?」
「……言ったよ。言ったけど……でも、これじゃもう実質結婚証明書だよね?」
「これは結婚証明書じゃないわ」
「……〝実質〟って話をしてるんだが」
「ふん。無理だったらいいわ。バラデュール議員及び急進党幹部が罪なき娼館経営者を毒殺未遂したって新聞社にタレ込んでやるから」
「……」
セルジュはしばし考え、
「契約期間を設けてもらってもいいか?今後私も君も、誰かと結婚するかもしれないので」
ジョゼは涼しい顔で返した。
「無論、それは想定内よ。期間は三年」
「ま……私が言い出したことだからしょうがない。しかし、だ。ジョゼもこの期間内はしっかり協力してくれよ」
「いいわ。でも報酬は弾んでよ?今回はちょっと、金額に見合わないほどの重大事件だったわ」
セルジュはその危険な契約書にサインをする。
数枚複製し、執事がうやうやしく取り上げる。セルジュは脂汗をかき始めた。
「……何だかおかしなことになって来たな」
「あなたの党が私の毒殺なんか企てるからでしょ?」
しかし、ジョゼの顔は快く笑っていた。
「じゃあ、今度こそセルジュもワインを飲みましょう。とてもいいものを仕入れて来たの。でも、まずはあなたが毒味すること。いい?」
「……はい」
「庭へ行きましょう。今日は、お祝いの特別フルコースなのよ!」
庭に出て行くと、ミシェルが高らかに歌い、アナイスがバレエのターンをし、リゼットが既に酔いつぶれていた。汗ばむ初夏の陽気に合わせ、清流から引き上げたての冷えたワインがやって来る。
五人はグラスを掲げると、青い空に向かって乾杯した。




