2. 緑の忌み名は草地に潜む
「こうして真実の愛の二人は数多の障害に疲れ果て、来世での再会を約束して儚くなりました、と」
うららかな昼下がり。読み上げた新聞を丁寧に折り畳み、テーブルの端へと置いてからカップの持ち手に触れる。
「物語のようなお話だわ」
オリヴィーネの向かいに座る令嬢が、音もなくカップを持ち上げて可憐な微笑みを浮かべる。
そこに女狐と言われた頃の張りつめた印象はない。
「それにしても、先日の夜会は乱入者騒ぎで大変でしたわね」
彼女が話題にした夜会では、謹慎中であるはずのセドリック第一王子の乱入と、顔を合わせただけのオリヴィーネへの断罪、そしてリリー・グリーンと真実の愛を誓って子を儲けたことを宣言したのだ。
王妃は三度目の卒倒をお披露目して運ばれていき、かつて見たことがないほどの怒りを露わにした国王陛下の命で捕縛される二人。
夜会で起きたことは新聞社によって、こぞって書き立てられ、今や国民の誰もが知っている一大ニュースだ。
これによって貴族たちは、セドリック第一王子の乱心は心の病気ではないかと囁き始め、今まで婚約者であったシシーリン公爵令嬢の献身を褒めたたえた。
逆に国民たちは、王族と恋に落ちた平民の少女をサクセスストーリーとして賞賛し、別れることなど許されない空気を作り出す。
ここまで醜聞となってしまったら、もう二人には消えてもらうしかないと判断したのだろう。
表向きは心中となっているが、セドリック第一王子にそういったつもりなどなかったことは、オリヴィーネがよく知っている。
「あれだけ殿下を可愛がっていらしたのに、夜会の翌日には物言わぬ遺体に変えてしまって。
リリー・グリーンと一緒になるのが、余程気に入らなかったのでしょうね。
最初から婚約解消を進めてくだされば、我が子を手にかけることはなかったのにとは思いますけど」
「そこに希望が見出せるのならば、諦めないのが人間ではないでしょうか」
オリヴィーネがそう答えれば、もの言いたげなアルトニアの目が細められ、けれどすぐに戻された。
「どうかしら。殿下だって忌まわしきグリーンの名前を知らないはずはなかったもの。
といっても、この国にグリーンという名前は沢山いるわ。それに王家が厭われるグリーンはもういないと言われているし。
だから彼女がグリーンであっても、ご自身には関係ないことだったのでしょう」
高貴な者達の内情をあっさり口にしながら、サーブされたケーキを一口よりも小さく切り分ける。
「グラスレーの献身によって、無事に事が成就されたこと、感謝していてよ」
オリヴィーネもデザートナイフを手にしながら、首を横に振る。
「長きに亘って当家を取り立てていただきました、シシーリン公爵様からの頼みとあれば」
何でも致しますよ、と言った唇がキュッと上がり、女狐の入れ替わりもかくやという印象となった。
「商売で成り上がったグラスレーなれば、正当な報酬を頂けますなら、ええ、何でも取り扱いましょう」
** *
グラスレー伯爵家の歴史は三代続いただけと、日が浅い。
それでも色々あるものだ。
特に爵位を手に入れた経緯を知っていれば、誰もが眉を顰めて敬遠する。
オリヴィーネの曽祖父が伯爵となる前。
買い取る前の爵位を守っていたのはグリーンを名乗る家系だった。
「リリー・グリーンは無関係な娘だったけれど、少しばかり瞳の色が似ていたのも、切っ掛けの一つかもしれない。
グリーン伯爵家の緑は明るいペリドットの色合いだったけどね」
夕食も終わり、皆で寛ぐ時間帯。コーヒーの香りを楽しんでいるオリヴィーネの父親が言う。
今日は王家からの使者が再び訪れて、顔合わせのお茶会で何があったのかを根掘り葉掘り聞かれたが、のらりくらりとした態度でお帰り頂いている。
セドリック第一王子とのお茶会には侍女も騎士もいたが、誰もが彼に侮蔑の視線を送っていたからか、そこまで注意深く会話を聞いていたわけではない。
幸いなことにリリー・グリーンが勝手気ままに振る舞って、注意を引いてくれていた。
その上で声を潜められてしまえば、何も聞こえないだろう。
セドリック第一王子の申し出を断ったあたりの会話に偽りはなく、聞き取れなかった部分も他愛も無い会話だったと言われてしまえば、王家とて難癖をつけることはできない。
なにより、国王陛下と王妃殿下のヘイトは、リリー・グリーンに向いている。
「仕方ないですわ。王家にとって、グリーンは忌み嫌うべき名ですもの」
コーヒーに添えられた小さなビスケットを口に運び、母親は呑気に笑う。
この時間帯は侍女も、執事すらも追い払って三人だけの時間だ。
「嫌われた方に不備がなければなおさらでしょうね。
でも、もう少し考える頭は必要じゃないかしら」
蓄音機から流れる音楽は、声を聞き取りにくくさせるくらいの音量で。
「王家が忌み嫌うグリーンが、変わらず同じ名を名乗り続けているとは限らないもの」
グリーン伯爵家のペリドットを連想させなくなった濃い緑が、仄暗い夜を写した笑みと共に細められた。
グリーン家に訪れた悲劇は、唯一の後継者であった王太子によって起こされた。
当時の王家には王子が一人しかおらず、身分はそこまで煩く言われなかったことが、後々の悲劇になるとは誰も思わなかった。
幼い王子は一番可愛くて従順そうだと、リリアナ・グリーン伯爵令嬢を選んだのである。
本来ならば公爵家や侯爵家の姫君が参加するだけのものだったが、王子に釣り合う年齢が少なかったため、比較的歴史も古く、かつ資産も潤沢な伯爵家も王子のお茶会に招待したのだ。
添え物程度のつもりだったのだろう。
けれど、取り澄ました小さな淑女よりも素直な令嬢がいれば、物珍しさが勝つのは当然のこと。
当時のグリーン伯爵家は貴族にしては珍しく、商売を手広くしている一族でいくつかの商会を持ち、資産だけで見れば侯爵家をも上回ると噂されるほどで持参金も問題ない。
後継者争いも無ければ、国外でも不穏な動きは見られなく、今からであれば、王太子妃教育に時間をかけても困ることもない。
そういったことから、さしたる障害もないままに婚約は整えられた。
けれど、幼いころの考えは成長と共に変わるもの。
いつしか従順で貞淑なだけの伯爵令嬢に不満を覚えるようになった王太子は、自身の学びが進むにつれて、かつては鬱陶しく思っていた高位貴族の令嬢達の方が魅力的に見えていた。
そうして行われた卒業式での婚約破棄騒動は、非の無い伯爵令嬢を貶めるだけの会場へと化す。
当時の国王の耳に入った時には全て終えた後で。
本来なら王太子を罰するところだが、王家も唯一の後継者を失いたくはない。
国民が不安に陥り、国が乱れることのないようにという言い訳で取り繕いながら、国王自らグリーン伯爵家に非があると宣言したのだ。
本来、公爵令嬢と縁を結ぶはずだった王太子を、金の力で割り込んできたとして、伯爵令嬢は悪女と汚名を被せられる。
貴族達も真実を知っていれども、自分の身可愛さに見て見ぬふり。
そして王太子は真実の愛を育んだ相手として、当時のシシーリン公爵令嬢と婚約したのはすぐのことだ。
そんな王家の暴挙を許すはずもなく、夜会で無罪の証拠を積み上げて莫大な慰謝料を請求するグリーン伯爵家と、まさかの証拠に焦った王家は、偽の証拠で王家の威信を損なおうとする逆賊として、グリーン伯爵をその場で殺害してしまう。
結果として、急速にグリーン家は没落していった。
領地の全てを没収されて潤沢な資産を失っていき、貴族から相手にされぬことから商会も次々と手離していく。
最終的に、国内でならば片手で数えられるくらいに裕福なグラスレー商会に爵位を売り飛ばして、一家離散となってしまった。
ただ、夜会で提示された証拠は全て控えでしかなく、原本を持ったまま姿をくらませようとしたグリーン一族を王家が見逃すことはできずにいて。
グリーン伯爵家が崩壊した後に、もはや抗う力を持たない彼らに、更に謂れのない罪をかぶせて大罪人と断じた。
翌年には嫡男を見つけて縛り首にして広場に晒し、遺体を回収しようとした従兄も捕らえて隣に並べた。
更に次の年には元伯爵夫人が修道院にいるのを発見されて、子がいないのを確認してから生涯に渡って監視が付けられた。
けれど、証拠の数々は誰も持っていなかった。
そんな追跡が十数年も続き、当時の国王が退位した頃になって、ようやく血眼になって探すのを止めたのが、オリヴィーネが生まれるよりもずっと前の話だ。
「シシーリン公爵令嬢は満足されていたかな?」
父親の問いに、オリヴィーネは頷いて答える。
「ええ、とっても。暗愚に嫁がずに済んだのだと大喜びでした。
周囲からの評価も上がった上で、次の婚約者は自分で選んでいいとなれば、浮かれる余りに警戒を解くのも仕方がない話だと思うの」
軽やかな笑い声に、穏やかな音楽が追従する。
「彼女が変わらぬ愛を誓い合ったのは、第一王子に代わって注目され始めた留学生だったね」
確か、と答えを求めるように父親の人差し指がくるりと回り、
「遥か彼方の国、バルティアの皇太子を名乗っているとか」
悪意に満ちた笑みが、隠された思惑を浮き彫りにしていく。
「ええ、そう。今一番、学園で注目を集めている方ね」
セドリック第一王子が謹慎すると同時に、学園内でシシーリン公爵令嬢と一緒にいるのを見かけるようになった男子生徒達。
異国情緒溢れる留学生の彼らは、バルティアの皇太子と側近を名乗っている。
そんな集団の中心にいる、褐色肌の妖艶な留学生からプロポーズを受けたという娘の言葉に、シシーリン公爵家も念のためと王家とバルティア皇家の双方に問い合わせており、確かに皇太子は留学しているという回答からホクホク顔でいるだろう。
あまり交流がない小国とはいえ、王太子にもなれない第一王子の婚約者から、皇太子の婚約者に格上げだ。喜ばないはずがない。
こちらの国の言葉を話すのは苦手としているが、留学先の学園で学年一位を取るぐらいに優秀である。
断罪劇によってシシーリン公爵令嬢に同情する生徒達も多く、彼らを温かく見守る生徒も多い。
学園を卒業してデビュタントを迎えれば、間もなく社交界で話題をさらうことになるはずだ。
「でも、皇太子殿下からの求愛は私も受けているので、とても不思議な話ですけどね」
オリヴィーネの冷え冷えとした笑い声と共に、音楽は終わりを告げた。
** *
「別に騙すつもりなんてないさ」
留学生とは思えぬ流暢な言葉で、オリヴィーネの横に立つ、褐色肌をした青年が話す。
視線の先には今宵プロポーズを受けて、今が幸福の絶頂であろうシシーリン公爵令嬢アルトニアが真実の愛と優雅に踊っている。
「でも、実際は皇太子ではないでしょう?
彼が皇太子だと思ったからこそ、アルトニア様は意気揚々とプロポーズを受け入れたはずだけど。
見ていて笑いそうになったわ」
小さな笑い声が、オリヴィーネの耳を擽る。
どうやらオリヴィーネの毒舌を楽しんでいるようだった。
「だが、周囲がそう呼んでいるだけだ。自ら皇太子を名乗っていないし、あの女にも言えないことがあるとは伝えている。
それに正しく皇太子の礼装をしているのが俺だと、ちょっと注意して見てみればわかるだろうに、小国風情と侮って慢心している方が悪い」
オリヴィーネに返事をしながら、近くの給仕からジュースの入ったグラスを受け取って、一つをオリヴィーネに渡してくれる。
「こっちは少人数で他国へと留学に来ているんだ。
ここは随分と平和ボケしている輩が多いが、安全対策として身代わりを立てるのは当たり前のことだろうに。
皇家も皇太子が留学しているかと聞かれたら、是とは答えるが、保全のために身代わりを立てている話を公爵家なんぞに言うものか」
グラスの中身を一気に飲み干して次のグラスへと交換した彼が、視界で踊り続ける二人を見ながら、鼻で笑って肩をすくめる。
「一応、こちらの王族には真実を伝えてあるが、第一王子のことで逆恨みしているからか、公爵には正しく伝えてないようだな。
けれど、そんな内情は俺の知ったことじゃない」
話している間にも二曲目が始まり、今日の主役然とした二人が再び踊り出す。
これで三曲目だ。
まだ婚約者でもない相手とこれ見よがしに踊り続け、周囲の人々から祝福されているかのように見守られている。
これでもう、他の相手へと目移りすることはできない。
「皇太子の影を務めているが、国に帰れば伯爵の家柄だ。
あの公爵家の娘が格下に満足できるかはわからんが、求愛を受け入れておいて、今更無理ですとは言えないだろうさ」
そうしてから、オリヴィーネを横目で見る。
「これで満足か?
オリヴィーネ・グリーン・グラスレー」
言葉は返さず、オリヴィーネはグラスのジュースを一息に飲み干した。
グラスレーはグリーン伯爵家の傍系だ。
とはいっても、しっかり調べない限りは誰も気づかないぐらいに縁は遠い。
大昔に嫁入り道具の一つとして、グリーンの末娘が小さな商店と流通経路を持って嫁いだのがグラスレー商会の始まりだ。
王家もきちんと時間をかけて調べたら、もしかしたら気づいたかもしれない。
だが当時の王家は、グリーンと名の付く者だけを一人残らず殺そうと躍起になっていて、そこまで意識が回らなかったし、もしかしたら事情を知っている側近の誰かが同情して見逃したのかもしれない。
娘が嫁いだ先の、しかも平民であることからグリーン伯爵家の系譜に載らず、だからこそグリーン伯爵家からの頼みごとならばと伯爵位を買い取ったのだ。
しかも、買い取った金の半分はグリーン伯爵家が用意してくれている。
当然のことだが、見返りがあってこその先行投資だ。
どちらも商いに手を染めた者であるからこその、暗黙の了解である。
グラスレーが爵位と一緒に受け取ったのは、生まれて間もない赤子だった。
グリーン伯爵家の血を引く、瞳にペリドットを宿した女児は、グラスレーの親戚へと預けられた。
預けた先が貴族であれば、怪しまれて調べられたかもしれないが、グラスレーには平民の親戚しかいないことが幸いし、疑われることはなかった。
こうして成り上がり伯爵となったグラスレー家は、当時の貴族達からは冷たい視線で迎えられ、商売上の取引で家に呼ばれることはあれど、貴族としての交流は皆無である。
だが、それはそれで都合が良い。
これ幸いと、次のグラスレー伯爵であったオリヴィーネの祖父が妻として迎えたのが、ペリドットの瞳の親戚だったのだ。
祖父の代では貴族から家に招待されるのは商品を売る時だけだったため、妻を同伴することはなく、次に生まれた子どもはグリーンの血を色濃くは引いていなかったことも幸いした。
こうしてグラスレーは、グリーンの血の潜む伯爵になった。
そうなると次にすることは、身内の受けた仕打ちに対する仕返しだ。
とはいえ自分達の立場を理解できているから、率先して何かをするわけではない。
ひたすらに、貴族社会に溶け込むよう努力し、シシーリン公爵家に媚びへつらい、ずっと日陰に身を潜めて時を待ち続けた。
だから今回の騒動は、何一つグラスレーが仕向けてなどいない。
したことといえば、少しだけセドリック第一王子とシシーリン公爵令嬢それぞれの背を押したぐらいか。
ちなみにバルティア皇国については、これまた大昔にグリーン伯爵家の娘が皇国に嫁いだご縁ぐらいでしかない。
グラスレーから見れば、赤の他人である。
楽しそうだから仕返しに参加させてもらおうと内密に接触してきたときには、さすがに驚いたけれど。
お祭り騒ぎが大好きな国民性である彼らだが、シシーリン公爵令嬢との婚約が持ち上がるのを阻止したいという思惑もあるのだという。
どれだけ彼女が優秀であろうと、王太子にもなれない無能の使い古しと縁を結ばれるなんて馬鹿にするにも程がある、が彼らの談だ。
どれが本音かはわからないが、使えるものは何でも使うのがグラスレーだ。
だから、皇太子であると知られた時の為に、断る理由を用意しておきたいという思惑と一致しただけにすぎない。
間もなく祝福された二人が、ダンスを踊り終わる。
この後にオリヴィーネは彼と三曲踊り、それからプロポーズを受ける手筈になっている。
留学生達の中で格下扱いされていた彼が、皇太子だと気づくのは何人いるだろうか。
「さて、婚約者殿。そろそろ出番だぞ」
空のグラスは給仕のトレーに置かれ、手袋をはめ直した手が差し出される。
そこには気負いも無ければ不安もない。
ただ次に起こることへの興味が瞳を輝かせている。
オリヴィーネも自分が同じ顔をしているだろうと思いながら、そっと手を乗せた。




