上州国人衆の末路
新田軍本軍と武田、上杉連合が狭野の地で死闘を始めようとしていた少し前、石川左衛門尉高信は六〇〇〇の兵を率いて越後から上州へと軍を進めていた。越後で合流した沼田佑光が軍師となっている。上州の様子は九十九衆を通じて、ほぼ正確に把握している。上杉家と通じている越後の忍び集団「伏齅は、上州には入り込めていない。風魔衆が動いているためだ。
「風魔は表立っては通じようとしていないが、こうして伏齅を掃除することで、北条家に対する御当家の心証を少しでも良くしようとしているのでしょう。北武蔵を抑えられなかったのは、北条の失敗と言えますからな」
九十九衆の頭領である加藤段蔵の言葉に、沼田佑光は無表情で頷いた。明らかに、言葉を少なくしている。段蔵はその点を評価した。当主に近いためか、南条広継や武田守信らは、軍師というよりは智将という側面が強い。八柏道為は謀臣そのものだが、朗らかさという仮面を付けることで、謀臣の薄気味悪さを消そうとしている。小野寺家の中で活躍するには、そうした仮面を付けざるを得なかったのだ。
一方、沼田佑光は父親と共に陸奥に来た。新田に仕える前は若狭名田庄に隠棲している土御門有脩に師事し、陰陽道などを学んでいたらしい。最初から謀臣という役割を期待された佑光は、新田の軍師衆に足りない顔として、今の顔を作り上げた。
「此方には?」
その言葉だけで段蔵も察することができる。越後からの援軍は、上杉も武田も読んでいる。此方にはどの程度の兵を備えとして置いているのか、確認したのだ。
「上杉は全軍をもって臨む様子。一方、武田は前後に分けておりまする。あるいは……」
情報を伝える側としては、言葉を少なくするわけにはいかない。それでも段蔵は最小限の言葉を選んだ。それを受け、沼田佑光は選択を迫られた。此方は六〇〇〇もいるのだ。武田が後方の守りに兵を向けたとしても、全軍を向けて粉砕できる。それともあえて放置し、西上州を攻めて武田や上杉の退路を断つことで、上野国の新田支配を完全なものとするか。
「……両方か」
ここから、沼田佑光のエゲツナイほどの謀臣ぶりが発揮される。上州連合軍に参加をしていない国人衆の中で、最大規模を持つのが新田金山城を領する由良成繁であった。由良成繁は北条、上杉、武田、関東公方と四方を大勢力で囲まれる中で、主君を変えながら下剋上を果たし、新田金山城まで手に入れた戦国大名である。
成繁は早くから鉄砲に着眼するなど先見性があり、機を見るに敏で立ち回りが上手い。また内政家でもあり、領内は上州の中では比較的まとまっている。自身が齢六〇という年齢と、正室である輝子が三七という年齢で産んだ嫡男国繁が、ようやく元服したばかりということもあり、連合に加わることを見送ったのだ。
(建前に決まっている。金山城の場所を考えれば解る。此方が勝てば、撤退する上州勢の前に立ち塞がり、もし武田、上杉が優勢であれば、後方の守りとして我らを止めるつもりであろう。つまり、今はまだ動かない。ならば此方に引き寄せれば良い)
幸い、由良氏の家紋は「新田一つ引」という簡単なものである。佑光はこれを偽造し、二〇〇〇の兵を率いて箕輪城に進んだ。上州勢に味方するため後詰めとして、殆ど空である箕輪城を守りに来たと偽り、場内に入る。そして一気に占領してしまった。狭野の決戦が始まる前日のことである。
「箕輪と由良の両方が手に入りました」
石川左衛門尉高信は、薄気味悪い笑みを浮かべる謀臣に、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。こんな男は、絶対に敵に回したくない。同時に、こうした男を信用し、縦横に使えるからこそ、新田又二郎政盛は怪物なのだとも思った。
「……してやられたわ。新田は良い謀臣を持っている」
「ホホホッ、そのようですね。それで、決めましたか?」
「仕方あるまい。新田に臣従する。土地は取り上げられるであろうが、家は残る。上手くすれば、国繁も揉まれて成長するだろう。由良は今以上に栄えるやもしれぬ。いや、そうならねばならぬ」
金山城内で、由良成繁は妻の輝子に、愚痴をこぼしていた。野心家で下剋上を果たした成繁は、当時の戦国大名に共通するように晩婚であった。輝子も最初は、有力国人であった赤井家の娘だったから娶っただけである。子など側女に生ませれば良いと考えていた。
だが娶ってから、その考えは変わった。半ば義務感で初夜を迎えたときから、成繁は輝子に夢中になった。その結果、輝子は三七歳、四三歳という当時では考えられないほどの高齢出産をした。
にもかかわらず本人は、その年齢に見合わぬ妖艶さと、烈女とも思える男勝りの苛烈な判断力で、夫を支え続けている。この妻を娶ったことは、我が生涯の天運であったと成繁は本気で思っていた。
「皆殺しになさいませ」
輝子は嫋やかな表情で、酷薄極まりない言葉を口にした。新田にとって旧態依然とした上州の国人衆など邪魔なのである。今回の決戦は、上州の大掃除を兼ねているのだ。自分が率先して清掃人になれば、新田の心証も幾分かは良くなるだろう。
「北と東の両方に使いを出しておく。念のためな」
我が妻ながら恐ろしいなと内心で思いながら、成繁は新田に降伏するための段取りを始めた。そして、狭野の野戦において新田の勝利が決まった。
上杉謙信が自分の死によって家臣たちを激発させる存在だとしたら、武田信玄はその真逆であった。信玄の死を知った馬場美濃守信春は、そこで降伏を決断した。これ以上、武田の男たちを死なせるわけにはいかないという理由もあったが、それ以上に心が折れてしまったのである。ただ地面に手を突いて泣いた。
「討ち取った武将は、侍大将では工藤昌祐、米倉重継、日向虎忠、部将としては飯富虎昌、山本晴幸、諸角虎光。そして大将、武田徳栄軒…… 馬場美濃守信春殿は、戦意が砕かれたのか、降りました」
第四次川中島で死ぬはずだった諸角虎光をはじめ、飯富虎昌や山本勘助など蒼々たる部将を討ち取った。侍大将でも、武田晴信時代からの古参の者たちが多い。
「そうか。信玄はどうやら、自分と同年か年上の国人たちを連れてきたのだな。武田家を掃除するためであろう。だが……」
甲斐や信濃に残っているのは、討ち取った部将や侍大将たちの子や縁者なのである。そして武田家当主は信玄の長男、武田太郎義信なのだ。簡単に降るはずがないし、降ることもできないだろう。
「それと、陽が落ちるまで追撃した長野業盛ら上州勢ですが、由良成繁の追撃を振り切ったとのことです。ただ、その後ろには石川左衛門尉殿が控えていることから、明日には降伏するでしょう」
「うん。上州勢などどうでも良い。問題は、上杉方で生き残った者、そして武田典厩と真田弾正だ」
武田軍は信玄が死んだことで兵たちも降伏したが、上杉軍は最後まで戦う覚悟を示した。一万の上杉軍のうち、実に七〇〇〇が討ち死にしたのである。残った三〇〇〇も重傷者が多く、動かすことすら難しい。
そして武田信玄の実弟である武田典厩信繁と、軍師として付けられた真田弾正幸隆は、一五〇〇の兵を率いて未だに遊軍となっている。由良成繁を信じなかった真田幸隆は、金山城を迂回する形で後方に下がった。その結果、越後から南下した石川高信の軍六〇〇〇とも鉢合わせせずに、無傷のまま残っている。
「殿、もはや勝負は決しております。これ以上の流血は無意味かと……」
「うん。道為に任せる。武田信繁は実直な男と聞いている。これ以上戦っても無意味と解れば、武田家を残すためにも降伏するだろう。それと、傷ついた兵たちは分け隔てなく手当をしてやれ。どれほど薬を使おうとも構わん。あと、謙信や信玄をはじめ遺体は丁重に扱うように……」
疲労が又二郎を襲っていた。これまでの、どの戦よりも過酷であった。新田軍は当初の三万のうち、実に八千以上を失った。勝ちではあるが、犠牲の大きな勝ちであった。
「殿、お休みください。今夜くらいは、甲冑を脱いでも構わないかと……」
「そうだな。越中の言葉に甘えさせてもらおう……」
フラフラと立ち上がり、自分の幕舎へと入った。近習たちに手伝わせ、甲冑を脱ぎ下ろす。肩を回して首を捻り、そして一杯の水を飲む。憶えているのはそこまでであった。
それから五日間、幾つかの動きがあった。まず南条広継、武田守信、田村隆顕、清顕らは、まだ動ける兵のうち、選りすぐった一万二〇〇〇を率いて蠣崎宮内政広の後詰めとして向かわせた。一気に北武蔵を攻め、北条との国境を定めた上で、今度は佐竹攻めに向かう。転戦に次ぐ転戦となるだろう。
だが又二郎は上州から動けなかった。論功を行う必要があったこと。そして降伏してきた者たちがいたことが理由であった。降伏した者たちとは、上州勢、由良成繁、そして武田典厩信繁である。又二郎は最初に、最も不快な者たちから会うことにした。
「……それが、長野業盛の首か?」
盛夏である。塩漬けにしようとも首は簡単に腐敗する。長野業盛を知る者に確認をさせたところ、本人であることが判明した。目の前で土下座している上州の国人たちは、逃げられないと悟るや長野業盛を襲撃し、その首を手土産に降ってきたのだ。
「我らは臣従いたしまする。土地はすべてお渡しいたしまする。その上で、どうか御当家の端にお加えいただきたく、伏してお願い申し上げまする」
又二郎は無表情のままであった。だが、その両脇に立つ石川田五九郎信直と大浦弥四郎為信は、主君が内心で激怒していることを感じていた。
(このような輩を殿がお許しになるはずがない。斬首であろうな)
(いや、この機会にまだ人を斬ったことのない自分に、試し斬りをせよと命じられるのでは……)
信直は斬首の段取りを考え、為信は初めて人を斬るかもしれないと緊張していた。だが又二郎の冷酷さは二人の想像を越えていた。優し気な口調で、さも申し訳なさそうに言う。
「済まぬが、今は時が悪い。武田や上杉の仕置きもある故、新田に仕えること、すぐに許すというわけにはいかぬ。されど土地がなければ困るであろう。ちょうど、佐渡で良い仕事がある。左衛門尉、佐渡に引き上げる際にこの者たちも連れていき、できるだけ良い仕事を与えてやれ」
「御意」
何の仕事かは言わない。だが石川高信は、主人の云うところを完全に理解していた。彼らは死ぬまで、佐渡金山で罪人と共に鉱山労働をさせられることになる。名前すら残ることはないだろう。
仕事が与えられると喜色を浮かべた国人たちは、そのまま感謝の言葉を述べながら連れていかれる。大浦為信は、甘過ぎるのではないかと思ったが、信直の顔色が悪いことを見て、主君の真意を悟った。
(私もまだまだだな……)
微かに苦笑し、首を振った。




