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神さまと部屋子

 神さま、今日でここに来て六月(むつき)が流れました。

 

 旦那さまに教えていただいて、読み書きもできるようになり、今では旦那さまのお仕事を手伝うまでになりました。

 (あやかし)のことも少しずつ教えてもらい、旦那さまのことを知れることが嬉しいです。

 お友達もできました。旦那さまのお食事を取りに行ったり、部屋のお掃除をする時に、おしゃべりをしたりするのが楽しみです。

 

 それでもわたしは今日こそ旦那さまに言わなければならないことがあります。

 

 

 

「旦那さま、わたしは旦那さまの部屋子を辞させていただきたく存じます」

 

 永臣(ながおみ)はとてもよくしてくれている。

 初めの頃と変わらず優しく、(なぎ)のことを気遣ってくれる。

 

(だからこそわたしは辞さねば)

 

何故(なにゆえ)だ」

 

 (なぎ)には、不満げな永臣(ながおみ)に告げることを躊躇う理由がふたつあった。

 あれは(なぎ)がここに来てすぐの頃――。

 

 

「あれが非らず人(アラズビト)で旦那さまの部屋子になった子よ」

 

「は!? なんで非らず人(アラズビト)ごときが? 旦那さまの部屋子なんて、皆が羨望するお役目じゃない」

 

「誰かが非らず人(アラズビト)の看病なんてしたくないって言ったら、旦那さま自ら看病なさったと聞いたわ」

 

「えー! 許せない! 旦那さまに看病させるなんて、なんて恥知らずなの!?」

 

 皆聞こえてないと思っているのか、何度もこういった陰口を聞くことになった。

 看病の話は(なぎ)自身が恐縮しているくらいなので、その言葉には同意しかない。

 

 お屋敷の中でも何人かは(なぎ)非らず人(アラズビト)と見下しては、部屋子に相応しくないと捲し立てた。

 

 でもこれは永臣(ながおみ)から任せられたことだ。

 (なぎ)はできる限り全うしようと頑張った。

 

 せめて他の人と同じようにできるよう、月明かりで書を読んだりもした。

 時には嫌がらせのようなこともあったけど、なんとか耐えた。

 そんな中、(なぎ)に忠告をしてくれる人がいた。

 

「私も以前に旦那さまの部屋子をしていたのよ」

 

 そう微笑みかけてくれた玉緒は、(なぎ)非らず人(アラズビト)と罵ることもなく、優しく声をかけてくれた。

 

「旦那さまに心を奪われては駄目よ。部屋子を辞めるとき、心が耐えられないわ」

 

 彼女も部屋子を辞めさせられたとき、失恋ほどの喪失感に苛まれて死のうとまで考えたらしい。

 周りの人に励まされて今は普通に過ごしているけれど、「旦那さまへの思いはなかなか消えないわ」と切なそうに教えてくれた。

 

「私が部屋子を任されたのは、私に(あやかし)が取り憑いていたからなの。あなたもきっと思い当たることがあるんじゃない?」

 

 ドキッと胸に痛みが走った。

 (なぎ)(あやかし)……神さまとお話ができる。

 それは(あやかし)に魅入られてるからなのかもしれない。

 

「旦那さま、わたしには(あやかし)が憑いているのですか?」

 

「確かに憑いておる。それもとびきり強い(あやかし)が」

 

 目を細めてそう言った永臣(ながおみ)は、(なぎ)の膝の上を眺めていた。

 きっとそこにいるのだろう。

 

 (なぎ)をその(あやかし)から解放したら、部屋子は終わり。

 玉緒はそう言った。玉緒自身がそうだったらしい。

 

 それからは辞めること前提で永臣(ながおみ)に仕えた。

 もともと奴隷である(なぎ)と、永臣(ながおみ)は遠い存在。

 好きになるなんておこがましい。

 

 そう思っていても――。

 

「私はそなたに頼みたいのだ」

 

 永臣(ながおみ)(なぎ)のことを特別に扱うたびに、気持ちが膨れ上がる。

 

「そなたと共に毎日祈らせてほしい」

 

 (なぎ)を欲する言葉に抗えなくなる。

 

「お言葉ですが旦那さま。わたしが部屋子になってからではありませんか。そのようにやつれたのは」

 

 もうひとつの理由がこれだ。

 (なぎ)を看病した次の日、目の下に隈を拵えた永臣(ながおみ)

 てっきり(なぎ)を看病したから寝不足なんだと思っていた。

 けれども(なぎ)の病が良くなっても、その隈は消えることはなかった。

 

 それどころか日々顔は青白くなり、隈は濃くなる。

 次第にやつれるまでになってしまった。

 

 (なぎ)を奴隷として買われた日は、月明かりでも血色がよく美しかった。

 それがこの六月(むつき)で失われたのだ。

 (なぎ)が部屋子となったこの(・・)六月で(・・・)

 

「私のことでそなたが辞めることはない」

 

「そんなことは――」

 

 (なぎ)の訴えも虚しく退けられようとしたとき、障子の向こうから人影が現れた。

 

「旦那さま、主上(おかみ)からの勅使(ちょくし)がいらしています」

 

主上(おかみ)から?」

 

「あの旦那さま、勅使(ちょくし)とはなんですか?」

 

勅使(ちょくし)とは主上(おかみ)の使いのことだ。勅使(ちょくし)主上(おかみ)からのお言葉を読み上げる時は、勅使(ちょくし)主上(おかみ)と同等として扱わなければならない。……つまり無礼は許されないということだ。まぁ、大丈夫だ。基本的に私が直接会う」

 

 永臣(ながおみ)よりも上位の存在。

 主上(おかみ)という天上の存在に相対すると考えると、背筋の筋肉が強張った。

 

 使者が待つ客待(きゃくたい)の部屋へと入ると、ピリッと空気が張り詰めて感じた。

 この黒い装束の白髪混じりの男性が勅使(ちょくし)のようだ。

 

周藤家(すどうけ)当主、永臣(ながおみ)参りました。主上(おかみ)はなんと?」

 

(旦那さまが両手をついて迎えるお客さまなんて、初めて見た)

 

 (なぎ)永臣(ながおみ)の後ろで両手をついて、頭を下げる。

 

永臣(ながおみ)殿、そう畏まらなくても結構ですよ」

 

 顔は見えないが、勅使(ちょくし)は親しげな声を上げ、張り詰めていた場の空気を和ませた。

 思ったよりも礼儀に厳しくはなさそうだ。

 けれども永臣(ながおみ)は少しも気を抜く様子はなく、勅使(ちょくし)の言葉を待つ。

 

主上(おかみ)からのお言葉をお伝えします。奴隷の件は始めから考え直すように、との仰せです」

 

主上(おかみ)がそのように……」

 

「はい」

 

 勅使(ちょくし)は相変わらず親しみを込めた声で話しているのに、今までにないくらい空気に緊張が走る。

  

 顔を上げた永臣(ながおみ)が手で素早く印を結ぶと、四方から縄が出現して勅使(ちょくし)に向かって一直線に伸びた。

 

「その男を捕らえよ」

 

 あっという間に縄が勅使(ちょくし)を縛り上げてしまった。

 勅使(ちょくし)(なぎ)も何が起きたのか分からずに、狼狽えるしかできない。

 

「な、なにをする!? 無礼な!!」

 

「そなた勅使(ちょくし)ではあるまい」

 

「何を根拠に……!」

 

勅使(ちょくし)はそなたのような物言いはしない!」

 

 再び旦那さまが印を結ぶと、縄がギリギリと締められ、勅使(ちょくし)(?)は呻き声と共に口から血を吐き出した。

 それを見て(なぎ)はビクリと震える。

 

(血……。 血が流れる……)

 

――(なぎ)……。逃げなさい。

 

 そう言いながら血を流して倒れた和尚さん。

 

(やめて。駄目!!)

 

 恐ろしい記憶にギュッと目を瞑った次の瞬間、何者かに腕を掴まれた。

 

「む、どこへ行った!? ハッ、(なぎ)!!」

 

 永臣(ながおみ)の声に目を開けると縄の間にはぽっかりと空間が空いていて、いつの間にか(なぎ)勅使(ちょくし)(?)に捕えられていた。

 

「お前が使用人や奴隷を大事にしていることは分かっているぞ、ひひひ。これなら攻撃できまい」

 

 勅使(ちょくし)(?)は(なぎ)を盾にするように、前に押し出した。

 

「たっ……!」

 

 助けてくださいと言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 永臣(ながおみ)の目の下にはくっきりと浮かんだ隈。

 やつれて汗を浮かべる姿に、助けを呼ぶことさえ躊躇われる。

 

 辛いのは永臣(ながおみ)の方だというのに、(なぎ)を気遣うように目を向けられれば、もう言葉は出てこなかった。

 少しすると、永臣(ながおみ)は印を結ぶ手もだらりと下ろしてしまった。

 

「ひゃひゃひゃ! ついに諦めたか!」

 

 何がそんなに可笑しいのか、勅使(ちょくし)(?)は楽しそうにケラケラと笑いだした。

 (なぎ)を捕らえた左手は緩めないまま、右手で(ふところ)から短刀を取り出す。

 よく研がれた短刀は(なぎ)の顔が映るくらい鋭利に光っていた。

 

「お前を殺せば、ご主人もお喜びになるだろう」

 

(旦那さまを殺す気なの!?)

 

 永臣(ながおみ)周藤家(すどうけ)の当主だ。

 その地位を狙って刺客を送ってくる輩がいるという話は聞いたことがある。競合相手からすると弱っている今こそ狙い時なのかもしれない。

 

 刺客が短刀を咥え、空いた右手で印を結ぶと、視界が一瞬で変わる。

 刺客は(なぎ)の目の前に移動していて、そのすぐ前には永臣(ながおみ)

 それに刺客の持つ短刀の先は、永臣(ながおみ)の目と鼻の先まで迫っていた。

 

 永臣(ながおみ)は手を下に下ろしていて、抵抗するのは間に合わない!

 (なぎ)は咄嗟に刺客の手をぐいっと引いた。

 

 次の瞬間、鮮血が花びらのように舞った。

 

「ぎゃあぁああ!!」

 

 悲鳴を上げたのは刺客の方だった。

 

「そなたが得意とするのは空間移動だろう。それで私を倒せるとでも思ったか」

 

 刺客の血が永臣(ながおみ)の着物にかかる。

 

(血が……)

 

 和尚さんの最期の光景が脳裏に蘇る。

 

 永臣(ながおみ)の着物が赤銅色染まっていく。

 

 刺客の手が(なぎ)から離れ、ゆっくりと崩れ落ちた。

 

 血を浴びた永臣(ながおみ)と目が合う。

 

 和尚さんが倒れる光景が、永臣(ながおみ)と重なった。

 

(旦那さまが死んでしまう!!!!)

 

「いやぁぁぁあああああ!!!!」

 

『ナギキズツケル ユルサナイ』

 

 神さまの声が頭の中で一際強く響くと、部屋の中だというのに、嵐が吹き荒れた。

 

(なぎ)!?」

 

「だん、な、さまが……!」

 

 四方八方から神さまの声が木霊する。

 もう何も考えられなかった。

 

「私は……だ。傷…………い」

 

 永臣(ながおみ)が何かを言っているが、雪崩のように押し寄せる神さまの声で周りの音が全く聞こえない。

 永臣(ながおみ)の血に濡れた手が差し出される。

 

 五年前になくなった母。

 奴隷商に殺された和尚さん。

 

(これ以上わたしから大切な人を奪わないで)

 

 嵐が部屋中に吹き荒れる。

 こんなことには意味がないと、頭では分かっているのに止まらない。

 

『――(なぎ)

 

 ふと母の声が聞こえた気がした。

 

『心を凪ぐのです』

 

(かか)さま、待って)

  

(かか)さま、わたし。旦那さまを傷つけてしまうのが怖いの)

 

『大丈夫。あなたの名は(なぎ)。誰も傷つけはしません』

 

 母の言葉に合わせて、神さまの声がだんだんと減っていくのと同時に、少しずつ心が凪いでいくのを感じた。

 狭まった視野が広がる。

 永臣(ながおみ)の心配そうな顔が目に映った。

 

(なぎ)、大事ないか」

 

「ぁ、旦那さま、お怪我を」

 

 永臣(ながおみ)の着物についた血を見ても、今度は冷静でいられた。

 

「問題ない。これはあやつの血だ。私には傷ひとつない。怖い思いをさせたな」


 部屋を見回すと(たたみ)(ふすま)鎌鼬(かまいたち)のような切り傷があちこちできてきた。

 座布団や茶器のようなもてなすための道具は、無惨な姿で誰ももうもてなせそうには見えない。

 刺客は足元に倒れたまま動いてはいなかった。

 

「ぁ……わたし」

 

(わたしがやったのかしら……)

 

 最上級の方をおもてなしするはずの部屋は、無惨な光景に変わっていた。

 恐ろしさで体に震えが走る。

 これを(なぎ)が作り出したのだ。

 

「そなたは怪我はないか?」

 

 きっと部屋の方が(なぎ)よりも直すのは大変だろうに、永臣(ながおみ)(なぎ)の心配をしてくれる。

 そういった永臣(ながおみ)の優しさに、(なぎ)はいつも心が救われていた。

 

「はい」

 

「そうか。ではみな無事だな。なによりだ」

 

 その言葉を聞いて、騒動で集まっていた使用人たちが一斉に永臣(ながおみ)を取り囲んだ。

 

「旦那さま! ご無事でようございました」

「私たち、心配で心配で」

 

 口々に永臣(ながおみ)を心配する声に、改めて永臣(ながおみ)がみんなに慕われていることを感じた。

 それを微笑ましく眺めていると、突然使用人たちの声色が変わる。

 

「旦那さま!?」

「お気を確かに!」

 

 使用人の中心で倒れた永臣(ながおみ)に、屋敷はこれまでにないほど騒然となった。

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