Favor / 好意
三月も半ばを過ぎ、シロップの生産が、終わりに近づいてきた。
白く冷たく感じた陽の光も、少し暖かみを増し、日陰以外では森の雪も消えた。
ここ数日バーチの芽もだいぶ膨らみ、日当たりのいい場所に生えるバーチは、芽吹きはじめている。間もなく今年の採取は終了となる。
ハンター達の情熱と、水桶なしの不便を耐えてくれた皆のおかげで、思っていた以上のシロップが生産されたようだ。すでに、来年はこうしよう、ああしよう、といった改良案もでている。
途中からライアン、オグ、火の精霊術師が日々交代で、シロップ担当になっていた。
サラマンダーは、後でシロップをあげるから飛び込まないで、と、リンがこっそりお願いすると、一日大人しくしていたようだ。残念ながら、次の朝にはまた飛び込もうとするので、リンの毎日の仕事が、ささやきかけ、だった。
館の文官、マドレーヌ、トゥイル等の会議参加者は、自分でも経験したいと、同僚を誘って、休みの日に樹液採取の手伝いに来ていた。トゥイルなどは、できあがった量を見て、これでやっと蜂蜜の値も安定する、と感激のあまり涙ぐんでいたほどだ。
この分なら、ミードや蒸留酒を試せるぐらいの分はあるだろう。
酒の分はないといったら、暴動が起きる。確実に。
今夜は満月だ。
うまい具合に今のところは厚い雲もなく、このまま空が保ってくれるといい。二月の満月は吹雪に当たってしまい、水の浄化石は作れなかった。今夜は今季最後のチャンスになる。
聖域での浄化石作成を習うため、初めてリンも参加できることになった。
ライアンに今夜の確認にいくと、シムネルが笑いをこらえたような顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「いや、いつも通りといえば、いつも通りの話だ」
「なにがです?」
「確認したところ、シロップの数がおかしいのです」
シロップは保管用の樽が一杯になるまで、一時的に、ここと、森の塔の貯蔵庫に分けて保管されている。
その後、ある程度樽が貯まってきたら、荷馬車で館に運びこんでいたのだが、特に問題があったとも思えない。
「盗まれたりは、していませんよね?」
「どのぐらいの水桶が最終的に使用されたかわからぬが、街と近隣の村の分を合わせても、今年のシロップは多くても百五十桶程の出来になるだろう、と見積もっていた」
近隣の人口と戸数の把握はしていても、さすがに水桶の個数を調べた記録はない。水桶に税はかからないからだ。
「まもなく採集も終わりますので、館、工房、森の塔の在庫確認を行いましたところ、樽の数をみても、二百桶を超えるシロップがあるのではないかと」
見積りより多く生産できて、何が問題なのかわからない。
むしろ突然の話に、初年度でそれだけの生産ができたのなら、喜ぶところではないだろうか。
「たくさんできたのなら、良かったのではないですか?」
「それにしても多いのだ。シムネルがシロップに水分が多いのかと、表にいるオグにも数の件を伝えて確認したが、オグが最終確認をしているし、そのようなことはないと」
「そうですね。問題はなかったですよ」
「樹液の回収を担当したエストーラ出身の者が、ここのバーチは樹液の勢いが良いから、と言ったそうだ」
難民の中には、大人も子供も、樹液の味を知っている者がいた。
ここは水が綺麗で豊富だから樹液は飲まないが、井戸の水質が良くない場所では、この時期森に入って、樹液を水代わりにすることもあったという。
「普通なら一日、一桶か、多くても二桶のところを、四桶になる木もあったそうだ」
「ああ、ローロが、この木はすぐ一杯に貯まるって言ってましたね。よく見回っていました。ハンターの気合に、バーチががんばったんですね、きっと」
うんうん、とうなずく。
「そうだな。多分、がんばってくれたんだろう。それでだ、リン。最後は皆、桶の回収に向かうだろう?その時に、一本一本とは言わないまでも、ちょっと奥まで入って、バーチの好意にお礼を言ってきてくれないか」
「お礼ですか?いいですよ。オグさん達と確認に回る予定ですし。穴を、木と樹脂で埋めて、しっかり塞がないと」
「頼む。それで喜ばれるはずだ。……リン、今夜は真夜中近くに聖域へ向かうことになるが、大丈夫か」
「はい。今から準備をしておきます」
リンの準備は決まっていた。
ひょいと厨房をのぞくと、ブルダルーがちょうど籠から何やら取り出しているところだった。
「師匠、ちょっと厨房を貸してください。買い物でしたか?」
「いや、ほれ、ダックワーズの弟が昨日到着したじゃろ。いろいろ土産に持ってきてくれたんじゃよ」
「ああ、確か、面会予定が入っているから、とライアンが言ってました。明後日だったかな」
籠にはレモン、オリーブの実、オイル漬けのハーブに、乾燥ハーブが数種類。陶器の瓶もいくつかある。
「これはマスタードなんじゃが、これにもいろんな薬草を混ぜ込んであるらしい。今夜は鶏肉にしようと思っての。ヴァルスミア・シロップに、ビネガーとマスタードでソースにしたら、おいしそうじゃろ?」
リン達が造ったバーチ・シロップは、とりあえず、ヴァルスミア・シロップという名前で呼ばれることになっていた。
「いつもの蜂蜜の代わりにシロップですね。おいしそう」
「蜂蜜も花によって全く違うが、シロップはまた一味違うのう。甘いのにさらりとして、それにあの香りが、なんともいえんな。リン嬢ちゃま、良い物を造りなさった」
「蜂蜜もそうですけど、森の、自然の恵みですよね。ライアンがついさっき、バーチががんばったって、言ってました」
ブルダルーも、ダックワーズも、館の厨房でも、シロップを使って様々なレシピを試している。
大市に来る各領、各国の人間に、砂糖とシロップを売り込むには、味わってもらうのが一番だ。館では晩餐会も開かれるらしく、ブルダルーも館と工房を行ったり来たりして、試作とメニュー決めに忙しい。
「おお、そうだ。ダックワーズの弟は、ラベンダーを持ってきていると言っておりましたぞ」
「やった!師匠、ちょっと、私、行ってきます」
「待て待て、どうせすぐに会えるのじゃろう?嬢ちゃま、厨房を使うんではなかったかの?」
「そうでした。今夜、無事晴れそうなので、聖域に持っていけるような、ちょっと甘いおやつを作ろうかな、と」
リンも、ブルダルーに負けずに、心の中で決めたスイーツスケジュール通りに、せっせとシロップと砂糖を試して、心ゆくまで楽しんでいた。
リンの場合は、レシピのテストというよりは、単に食べたかっただけだ。
「ふむ。またシロップを使われるんかの?見学をしてもいいかね?」
「もちろんです、師匠。というより、窯の温度調整、手伝ってください……」
「今日のはフレンチトーストなんかと違って、窯で焼いて固めるお菓子で、冷ましてから食べるんですよ」
鍋にバターを溶かし、ヴァルスミア・シュガーにシロップを混ぜ合わせ、そこに潰しオーツ麦を加えた。クルミを刻んで入れ、乾燥ぶどうと、薬草茶の時に買い込んだベリーの残りも放り込んで、混ぜ合わせる。
「えーと、あと塩を一つまみ、だっけ」
「リン嬢ちゃま、パンを焼く位の温度でいいのかね?」
「お願いします」
鉄のフライパンに薄く生地を広げて入れて、窯にそのまま入れる。三十分ぐらい焼けば出来上がりだ。
混ぜて焼くだけという簡単さで、覚えていたレシピだ。
「ふむ。腹持ちの良さそうな菓子じゃの?」
「友達がフラップ・ジャックって呼んでいたお菓子です。お昼にかじっていたりしましたよ。冷めたら切り分けますから、味見してくださいね」
甘味をふんだんに使えるのは、なんという贅沢だろう。
リンは心の中で、バーチに盛大な感謝をささげた。





