第37話:「熱湯は電気ケトルですぐに沸かすことが出来ますから」
「じゃ、じゃあ、先に下に降りてるから」
「おう……!」
顔を赤くした芽衣はポンポンとおれのコートの襟元を整えるように軽く叩いてから、バタンと扉を閉めて、トコトコと音を立てて階段を降りていく。
そんな些細なやりとりに微笑みがこぼれた。微笑みだと思ってるけどニヤけになってるかもしれない。もしくはもっとひどい顔をしているかもしれない。まあいい。
せっかく一人にしてもらったので、いったん存分に口角をむにむにへらへらさせてからその後いかんいかんと首を振り、表情を整えながら出かけるため荷物の準備をした。
ギターをギターケースにしまい、道中で音源を聴いていけるようにイヤフォンをポケットにしまって、他にも忘れ物がないかケースの大きなポケットを確認する。
ギター弦が入ってないな、と、ふと思い、自分が少しばかりかっこ悪く思える。
『アコギの弦でよければ持ってますけど』
吉野の家に行った時に一夏町駅で会った小沼君は、メンバーの分の弦すら持ち歩いているというのに、おれは自分の弦を自分のギターケースに入れてすらいない。
……いや、でも、小沼君のバンドメンバーのギターボーカルの人はおれと同じくらいうっかりさんということなんだろうか? 天然入ってるとか言ってたしなあ。おれは天然入ってないけど。
まあいずれにせよ、今日の帰り、楽器屋で買っておこう。
ギターケースを背負いながら、弦を忘れないようにとスマホにメモしながら下に降りる。
すると、芽衣がリビングテーブルの前で少し手持ち無沙汰そうに待っていた。
「ギターケースにギター入れてくるだけなのに結構時間かかったね」
「おう、ごめん……!」
「別に謝らなくていいけど……その……」
そこまでいうと芽衣は立ち上がって、なんだかもじもじしながらテーブルの上に置いてあった水筒を手に取り、
「あの、勘太郎、これ」
と、差し出してくる。
「ん?」
「その……はちみつレモン、作ったから……!」
「へ? 何それ?」
突然のことにいろいろ理解が出来なくて、素っ頓狂な声をあげながら首をかしげてしまう。
「な、何って……! えっと、ポッカレモン大さじ2に、はちみつ大さじ2に、熱湯を300ミリリットル混ぜて作ったもの! ですけど!」
「いや、レシピを聞いてるわけじゃなくて……」
それになんで最後敬語だよ。
「えっと、熱湯は電気ケトルですぐに沸かすことが出来ますから、簡単に作れるものですけど……!」
そういいながら、伏し目がちに水筒をおれの胸元にぐりぐりと押し付けてくる。ちょっとだけ痛いけど、妙に心地いい痛みだった。
「ああ、うん、はちみつレモンの作り方は分かったけど、これ、おれのために……?」
「だ、だって! 今日勘太郎、バンドの練習だって言うし、昨日いきなりそれ言うし、練習できてないのあたしのせいだし、練習でリズム見てあげようかって言ったらいらないっていうし、その、ちょっとでも役に立てたらって思っただけなんだけど。はちみつレモン、喉にいいから」
慌てたように、なぜか言い訳がましくつらつらと教えてくれる。
おれはといえば、こみ上げる喜びと可愛すぎる芽衣の言動になんと言ったらいいか分からず、それこそ素直に答えると勢い余って告白とかしちゃいそうだったので、
「お、おれ、ギター弾くだけだから歌わないけど……」
などと、要らないことを口にしてしまう。本当に馬鹿だと思う、けど無理!
「勘太郎、コーラス歌うじゃん……! ギターに役立つあたしに出来ることが浮かばなかったの! いらないならもういい。あたしが飲む……」
「うそ、ごめん! おれがばかだった! いります、欲しいです! いくら払ってでも手に入れたいです!」
しょんぼりしかけた芽衣の顔を見ておれは慌てて撤回する。
「そ、そんな言わなくてもあげるよ、お金とかいらないし……。ていうか材料は勘太郎の家のものだし。じゃあ、まあ……はい」
「……ありがとう」
受け取って、大事にギターケースにしまう。どうしよう、大事すぎて飲めないかもしれない。
「ちょっと、しみじみ目を閉じてないでよ。電車に間に合わなくなっちゃうじゃん。ほら、そろそろ行こ?」
「おう……!」
二人揃って家を出る。
駅までの道中で、芽衣がやや今さらな質問をしてきた。
「勘太郎たち、今日どこのスタジオなの?」
「池袋」
「え、まじで!?」
おれの伝えた地名に芽衣がやけに驚く。
「いやなんでそんなに驚いてるんだよ……? おれたちいつもそこだよ。飯田も大黒も家こっちの方じゃないから、池袋が中間地点なんだよ」
飯田英太は、うちのバンドのベース担当で、大黒大地はうちのドラム担当だ。
「まじかー……! いや、実は、あたしも夏織ちゃんとの待ち合わせ、池袋なんだよね……」
「ああ、そういうこと……」
まあ、それはありえないことではない。
埼玉の植民地として名高い池袋のことである。「そっかあ、うへ……!」おれたちの住む秋ヶ瀬駅と吉野の住む一夏町駅からしたら、女子が遊びに行く駅として一番最初に名前が挙がるのは必然であろう。……ん?
「今、『うへ』って言った?」
「言ってないわ」
「口調変わってるし……。ていうか、じゃあ、このまま池袋まで一緒ってことか?」
「そうね、そうなるわね」
「ふーん……。いや、じゃあさ、」
おれはあることに気づいて顔をしかめる。「ん?」と芽衣がこちらを見た。
「吉野と待ち合わせってことは、同じ時間に池袋めがけて来るってことだろ? そしたら割と高確率で一夏町から乗ってくる吉野と同じ電車って可能性もあるんじゃ……?」
「た、たしかに……!」
気遣い屋の芽衣がそんなことに気づかないとは意外。「あぁ……」とかため息をついてるし。
「じゃあ、別々で乗るしかないねえ……」
「そうだなあ……」
残念そうに肩を落とす芽衣にいろんな意味で同意をしながらも、最寄駅の秋ヶ瀬駅に到着した。
「はあ……じゃあ、あたしは後ろの方から乗るね……」
「おう、じゃあおれはこっちから」
少々ルール違反なくらいしょんぼりしている芽衣に手を振って、別々の階段でホームに降りた。
ちょうど電車が到着したので、イヤフォンをポケットから取り出しながら乗り込む。すると。
「あっ、諏訪君!」
向かいの扉の窓際に立っていた黒髪セミロングの女子がおれを見て「偶然だあ!」と手をあげる。
「おお、吉野……!」
いや、ほんとに別々に乗ってて良かったな……。




