第1話:「……あたしは、勘太郎の家に居候するから」
「お風呂、お先にいただきました」
南畑芽衣が、濡れた亜麻色のショートボブの髪をバスタオルで拭きながら我が家を歩いている。
その手には冷たい牛乳の入ったグラス。今キッチンにいるうちの母親に注いでもらったのだろう。
こちらに近づいてくると思ったらソファに腰掛けてテレビを見ているおれの脇に立ち、
「勘太郎、ちょっと詰めてよ」
と言ってくる。
「……おう」
おれが少し場所をずらすと、芽衣はソファの上、おれの左隣に体育座りした。テレビに集中しようとしているのに、ランニング用のショートパンツからすらりと伸びる脚が暴力的な魅力を伴って視界に入ってくる。
……目の毒だ。
仕方なく、おれは視線を右側に逸らしながら、意味のない質問をする。
「なんでわざわざおれの隣にくるんだよ」
「……だって、勘太郎の隣が一番居心地いいんだもん」
……心にも毒だ。好きな相手にこんなことを言われて、心が躍らないやつなんているはずもない。
「……そうかよ」
なんとか、なんでもないように努めて一言だけ返すと、芽衣はコクリと頷く。
「うん。だって、昨日の今日だし」
「まあ、それもそうだな……」
おれは雑念をなるべく追い払うことも兼ねて、昨日のことをそっと思い出していた。
放課後。夕暮れ。校舎裏。
決戦は金曜日だ。
おれはゴクリと唾を飲み込み、目の前に立っている幼馴染をじっと見つめる。
「勘太郎、いきなりこんな『いかにも』なシチュエーションでどうしたの……? 呼び出しなんて似合わないことしちゃって……」
目の前で芽衣は心配そうに瞳を揺らしておれを見上げる。
「ああ、いきなりごめん……!」
芽衣がここまで不安そうにしているのはあまり見ない。もしかしたらおれの目が血走ってたりするのかもしれない。
だけど、それも許してもらいたい。なんせ、おれにとっては一世一代の大勝負なのだ。
上手くいかなかったら、おれたちの10年以上かけて築き上げてきたこの気の置けない関係が水泡に帰すかもしれない。
両親同士が小さい頃からの大親友で家も近所という奇跡的に繋がっている縁を引きちぎってしまうのかもしれない。
……それでも、今日こそは言うと決めた。
おれは、南畑芽衣に告白をすると、そう決めていた。
二、三度深呼吸をして、勇気とか勢いみたいなものを身体の中に取り込む。
そして、口を開く。さあ、行け、諏訪勘太郎。
「なあ、芽衣。おれ、実はずっと……」
「ちょ、ちょっと待って、勘太郎!」
芽衣が確信した、とばかりに一瞬目を見開いたかと思うと、手のひらをこちらに向けた。
そのポーズが示すのは、明らかに『拒絶』の意思。
「芽衣……?」
「あ、ありがとう、勘太郎。だけど、その先は……言わないで。すっごく覚悟して話してくれてるのも、ありったけの勇気を振り絞ってくれてるのも分かってるつもりなんだけど、あたしはそれを聞くわけにはいかない……!」
出鼻をくじかれて、おれは戸惑う。
「そっか……」
そして、おれは悟った。
きっと、芽衣はおれの想いには応えられないということなのだろう。
他に好きなやつがいるのかもしれないし、単純におれのことをそう言う目で見られないという話かもしれない。……嫌われてるわけではないと思いたいけど、とにかく恋愛感情としての「好意」はおれには持っていないのだろう。
だから、おれたちの関係に決定的な亀裂が入らないように、告白を未遂に終わらせようとしている。
頭のよく回って、気遣いの出来る芽衣らしい行動だと思う。
……でも。
「……でも、ここまで言ったんだ。せめて悔いの残らないように、最後まで言わせてもらえないか?」
「絶対だめ!」
改めて、強い拒絶。
「そこまで……か?」
「あの、ちゃんと、理由は話すから。だから……、一緒に帰ろ?」
「…………は?」
今しがた事実上振った相手と一緒に帰る? いくら家が近所だからって、それは……!
おれが怪訝な顔を向けていると、心底申し訳なさそうな顔をして、手を合わせる。
「今日、あたしと一緒に帰ってくれたら、分かるから……! お願い……!」
その表情に気圧されて、おれはつい一緒に帰ることを選ぶ。
帰路はひたすら無言だった。おれは何を尋ねてよくて何を尋ねてはいけないのかがよく分からなかったし、かといってこのタイミングで告白と関係ない雑談を振ることの出来るほどの胆力は持ち合わせていない。
ぐちゃぐちゃの思考を引きずったまま二人の家の近くまで着き、よく分からないまま芽衣の家の前で手を振ろうかと思っていたら、芽衣はさらに歩みを進めて、おれの家の扉の前までやってきた。
「は、なんでおれの家……?」
「……お邪魔します」
自分の家なのになぜか芽衣に導かれるように玄関をくぐり、ダイニングに向かうと、そこには。
「ああ、帰ってきた。おかえり、二人とも」
なんだか嬉しそうに顔をほころばせるうちの両親と、
「勘太郎くん、お邪魔してるよ!」
こちらも嬉しそうな芽衣の両親がいた。
「え、いや、父さんも母さんも仕事は……? 芽衣のお父さんだって……」
「今日は南畑家の送別会だから、半休を取って帰ってきたんだ」
「送別会……?」
どうしよう、何言ってるのか全然わからない。芽衣の家族はどこかに行くのか? つまりそれって……?
「芽衣も、どっかに行っちゃうのか……?」
芽衣の方を向いて尋ねると、おれの幼馴染は目を逸らしながら小さく呟いた。
「……あたしは、勘太郎の家に居候するから」
「…………は?」
混乱して顔を引きつらせたおれに、それぞれの両親が聞かせてくれた話の内容はこうだった。
この秋から、芽衣のお父さんのニューヨークへの転勤が決まった。海外で暮らすことがかねてからの夢だった芽衣のお母さんは、それについていくことにした。それにつれて賃貸で借りていた家も引き払うことになる。
だが、娘の芽衣は今通っている高校を退学することを嫌がり、日本に残りたいと言い張った。
普段聞き分けのいい娘の強い希望なので、両親も叶えてやりたい。ただ、女子高生を一人暮らしさせるのは何かと不安である。かと言って、芽衣 (とおれ) の通う高校には寮もない。
考えあぐねた二人が親友であるうちの両親に相談したところ、
『高校卒業まで諏訪家に居候すれば?』
と、うちの両親が提案したらしい。
最初は、幼馴染とはいえ年頃の男子がいる諏訪家に預けるのに難色を示した芽衣の両親だが、芽衣の「これまで10年以上何もなかった勘太郎と今さら何かあるわけがない」という言葉と、他に頼れる相手もいないということ、うちの両親の監視下なら大丈夫だろうということと、そもそも「勘太郎くんなら大丈夫だろう」ということで、うちで預かることになった。
……ということだ。
「まじか……」
その話をされている間、芽衣はおれの横に座ってずっとばつが悪そうにうつむいていた。
「……それで、芽衣がうちに来るのはいつから?」
おれがそう質問すると、芽衣のお母さんが答える。
「明日からだよ」
「明日!?」
つい素っ頓狂な声をあげてしまう。
「あれ、芽衣ちゃん、勘太郎くんに言ってないの……? 芽衣ちゃんが自分から伝えたいって言ってたから、それで任せてたのに」
「今日、サプライズで言うつもりだったんだよ……! そしたら、勘太郎が先に……!」
「勘太郎くんが先にどうしたの?」
「いえ、なんでもないです!」
おれは慌てて遮る。芽衣の両親の前で御宅の娘さんに告白しようとしてました、なんて言えるかよ。
「えーっと……、芽衣、おれの部屋でちょっと話せるか?」
「う、うん……!」
芽衣もおずおずと立ち上がり、階段を上がるおれについてくる。
「二人とも、仲良くねー? 勘太郎、怒っちゃダメだよー?」
リビングからおれの母親の声がした。そんなに殺気立ってるように見えるらしい。
二階のおれの部屋に入り、ドアをそっと閉めた。
「なんで黙ってた?」
「その、こんなことってなかなか無いから、直前にいきなり話して驚かせてみたくて……」
「いや、直前じゃなくても十分驚けるだろ、こんな話……! ていうか、先に聞いてれば、おれだって、今日あんなこと言おうとなんか……」
「ごめん……」
しゅん、とした芽衣に追い討ちをかける気も起きず、とりあえず嘆息で済ませる。
「まあ、とりあえず、事情は分かった」
「うん……勘太郎が言ってくれようとしてたことを聞けない理由も分かったでしょ?」
「そうだな」
そりゃ、『これまで10年以上何もなかった勘太郎と何かあるわけがないから』っていう条件で芽衣はうちに居候するんだから、おれから告白を受けた時点でその前提は崩壊するよな。
そうすると、ほぼ必然的に芽衣は今の高校を辞めないといけなくなる、と……。
実際芽衣がおれのことをどう思っているのかは気になるところだけど、それももはや聞くわけにはいかないんだろう。……多分。
「でも、そんなにしてまで高校出たくない理由ってなんだよ? いいじゃん、ニューヨーク楽しそうだし。もう部活も引退したんだし、帰国子女になったら大学受験とかも結構有利なんじゃねえの?」
「それはそうかもだけど、あたしは今の高校を卒業したいの」
「それ、あんまり説明になってないんだけど……。そもそも、芽衣は成績がいいからもっとレベル高い高校行けたのに、わざわざうちの高校を選んだよな。瀬川高校の何がそんなに気に入ってるんだ? 部活?」
「別に入る前は高校自体を気に入ってたわけじゃないし、今だって高校への愛着だけで退学したくないってわがままを言ってるわけじゃない」
はあ……。おれは首をかしげる。
「じゃあ、なんで……?」
「……だから、それを言ったら、一緒に住めなくなるって言ってるでしょ……?」
ぽしょりと芽衣はつぶやいた。
「え、それってつまり……」
「もう、詮索禁止! だめ!」
顔を真っ赤にして口元を手の甲でおさえる芽衣。
「お、おう……!」
その姿が不意打ち的にあまりにも可愛いので、詰問モードから一気に元々の告白する前のモードに戻ってしまった。
「と、とにかく! 明日からあたしはこの家に居候させてもらうから……!」
「分かった……!」
告白は出来なかったが、もっと嬉しい誤算という感じもするし、だけどやっぱり『何か』があったら芽衣が日本を離れなくちゃいけなくなるということは、おれの気持ちは隠し通さないといけないということでもあり……。
つまりこれ、生き地獄なのでは……?
「じゃあ、戻ろ、勘太郎。今日はパパとママの送別会して、明日の朝にはあたしの荷物がこの家に来る予定だから」
「おう……そういえば芽衣の部屋ってどこなんだ?」
「隣」
そう言って芽衣は壁を指差した。
「ああ、姉ちゃんの部屋か……」
就職とともに家を出て、半分物置状態になっている姉貴の部屋を使うらしい。……おれより広いじゃん。
部屋を出ていく時、振り向きざまに芽衣は言う。
「明日からよろしくね、勘太郎」
そう言ってから、芽衣は下唇を噛んだ。
その仕草を見て、おれは微笑む。
「……おう、よろしく」
芽衣が下唇を噛むのは、にやけそうなくらい嬉しい時にそれを隠そうと我慢をする時のくせだった。
「うん、その……不束者ですが、よろしくお願いします」




