第五話
この世界で目覚めてから七日が経過していた。樹海探索は継続していたが、依然として人間の痕跡を見ることは無かった。とはいえ、無意味に過ごしてたわけではない。幾つか判明したことがある。
一つは自分の食性についてだ。あの小さな泉を発見した翌朝、大猪を平らげたというのに空腹を覚えた。その時、ふと思った。今まで何を食べていたのだろう、と。大猪は無我夢中で喰らい付いてしまったが、完全な肉食だと判断していいのか気になった。
その際、突如として脳裏に浮かんだものがあった。大猪に兎、鹿やネズミ。巨大なドングリのような木の実や毒々しい色彩の果物と思われる物体。極彩色の傘を持つ茸や美しい花の姿もあった。それらは過去に食してきた記憶だとすぐに分かった。どうやら、一部の記憶は思い出せるらしい。
結論から言えば、自分は『雑食』であり『悪食』でもあるようだ。肉も木の実も果実も山菜も茸も野草も、何でも食べられる。魚介類もあれば食べていた事だろう。
記憶の中に人間らしき姿が無かったのは本当に幸いだ。過去に食べていたらどうしようかと戦々恐々としていたが、杞憂に終わって何よりだった。ただ、記憶にすら無いとなると人間は本当に存在していないのではないか、とも思ってしまったが。
ちなみに、記憶にあった物を一通り食してみたが、どれも素晴らしく美味であった。
それはさておき、続いてはこの肉体についてだ。猪と対峙した時もそうだったが、自分の意思である程度の肉体操作が可能らしい。具体的に言えば、皮膚の硬質化や爪の鋭利化などだ。
元より強靭な皮膚は発達した筋肉もあって岩の如きだが、意識して力を込めると鋼のような硬度になる。また、人間と同じようについている両手十指の爪を鋭利な刃物のように変化させる事が出来た。切れ味も中々のもので、獲物を捌く苦労も減らしてくれる。というより、この肉体操作が出来なければ獲物の解体すらできなかっただろう。
次はこの森についてだ。七日間であちらこちらを彷徨い歩いてみたが、森を抜ける事は無かった。ただ、最初に目覚めた巨樹の密林地帯と泉を発見した地点を比べると、前者の方が森の深部だと考えている。
というのも、巨樹の密林地帯を泉の方角とは反対方向へ進むと黒い霧のようなものが立ち込める場所へと至るのだ。その辺りは生き物も少なく、薄気味の悪さだけが異常に目に付いた。いつかは散策しようと思っているが、かなり後になりそうだ。
それに深部以外といえど、たった七日で全てを見て回れるほど狭くはない。まだ見ぬ動植物が多くいることだろう。
新たな発見、新たな感動を求めて彼は今日も森を歩いていた。
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朝から散策を始めた彼は、あの小さな泉へ足を運んでいた。この土地は地下水も豊富らしく、よくよく探してみれば森のあちらこちらで湧水を見つけることが出来た。ただ、どれも小さなもので川の源流になるような大規模なものは無かった。
彼が他の泉には目もくれずに向かっているのは、何のことは無い。あの小さな泉を気に入っているからだ。水は冷たく澄んでいるし、周囲も僅かばかり気温が低いように感じる。この肉体は気温の変化には鈍感らしいが、泉周辺の心地よさは格別だった。
「……ん?」
急ぐこともなく、のんびりと歩いていた時だった。木々の枝葉が揺れる音に混じって、獣の鳴き声らしきものが聞こえてきた。
「犬か……狼かな」
森の中では両方とも見たことは無かったが、何度か遠吠えは聞こえていたので、それらしき獣が存在しているだろうとは思っていた。
彼は迷うことなく鳴き声が響いた方角へ足を向けた。足早になりそうになるのを抑え、なるべく静かに移動していく。犬や狼が相手だとすれば、良い鼻と耳を持っているのは間違いない。襲われる可能性もあるので、気づかれずに接近したかった。
徐々に音が大きくなってきた。鳴き声はいつしか唸り声や咆哮へと変わり、その数も一つや二つではなくなっている。その中に、随分と聞きなれた荒い鼻息のような鳴き声も聞こえてきた。
「……なるほど、相手は大猪か」
人間よりも遥かに優れている視力は、かなりの距離があるというのに鮮明に見えた。暴れまわる猪を、黒い毛並みの狼が素早い動きで翻弄している。
この七日間で分かった事だが、あの大猪はとんでもなく気性が荒い。視界に同種以外が入るやいなや、鼻息荒く突撃を開始するのだ。相手が自分のような怪物だろうが、大人しい草食の鹿だろうがお構いなしに、である。
逃げ遅れた標的は鋭く大きな牙で貫かれ、無残な屍を晒すことになる。地球の猪とは食性が異なるようで、彼らは好んで肉を食っている。その旺盛な食欲のせいなのか、繁殖力はかなり高いらしい。この森で一番良く見かけ、一番よく食べた動物が大猪であった。
黒い狼は三匹が巧みに連携を取りつつ、徐々に猪を追い詰めていた。最初はどうしてこんな狭い場所に猪がいるのだろうか、とも思ったが今はなんとなく理解できる。恐らく、狼達が誘導してきたのだろう。突進力こそあるが小回りが利かない猪にとって、動きが制限される狭い空間は致命的だ。一方で、狼達は力強く地を蹴って自由に動き回っている。
軽やかに駆ける狼とは対照的に猪は動きが鈍っている。鼻息はかなり乱れ、口からは涎が垂れている。相当に疲弊しているのが一目で分かった。暴れる体力も失いつつある猪の命運は決まったに等しい。
「見事なものだな……ん、まだいるのか?」
猪の巨体が動きを止めた瞬間、後方から更に三匹の狼が飛び掛った。そこへ前方からも三匹の狼が喰らいつく。強靭な顎と鋭い爪によって体中から血を噴出し、猪は動きを完全に止めた。
大物を仕留めた狼達が巨体に群がっていく。六匹の群れかと思ったが、二回りほど小さな三匹の子狼の姿もあった。周囲を警戒しながらも牙を見せて肉を食べる様は、小さくとも立派な狼なのだと思えた。
「……さて、私も食事にしようか」
ついつい狼の狩りに見入ってしまったが、空腹を覚えて踵を返した。彼らの獲物を横取りするつもりも、食事の邪魔をするつもりもない。
これでも狩りの技術はそこそこ身に付いてきた。この土地は野生の動物が多いし、食べられる木の実や茸も豊富だ。当分の間は食料に困ることはないだろう。
けれど、やっぱり狩りを一緒に行える仲間が居るのは羨ましいなぁと思ってしまうのだった。




