第十二話
クロの言う『面白い場所』は予想よりも遠くにあった。昼過ぎに移動を開始したが、既に日は傾きつつある。初めて会った頃とは比べ物にならない程に体力がついたクロは平然としているが、トールは疲労を隠しきれていない。
けれど、それらも目の前に広がる光景を見てしまえば容易く吹き飛んでしまった。異世界で目覚めてからというもの、樹海を彷徨い歩いては驚いてきた。そして、今。目の前に広がる光景もまた、驚異の一言であった。
トールの視線の先には一本の巨樹が屹立している。樹高や樹周は森の深部で多く見てきた巨樹と大差は無いが、この辺りの木々と比べると際立って見える。気の遠くなるような樹齢を重ねているのが一目で分かった。
一本だけ突き出た巨樹、というのも充分に驚くべき光景ではある。しかし、トールが感嘆したのはそれに周囲の景色が合わさっていたからだ。
堂々たる威容を誇る巨樹に畏怖しているのか、あるいは畏敬からなのか。巨樹の周りには一本として木が生えていない。正確な距離は分からないが、間違いなく二十メートル以上に亘る空間が広がっている。もしも空から俯瞰できたなら、この場所は広大な樹海の中に突如として円形の穴が開いたように見えるだろう。
トールはゆっくりと巨樹に近づいていった。間近で見上げてみると、思わず後ずさってしまうほどの圧倒的な迫力がある。傾きつつある太陽の光を巨大な樹冠に受ける姿は、雄大であると同時に息を呑むほどに美しかった。
それにしても、とトールは思った。周辺の特異な環境がそうさせるのか、この巨樹は今まで見てきたものとは違うように感じるのだ。樹海に満ち溢れる自然の香りが一段と濃いような気がする。
「ん……?」
少し離れた場所から改めて巨樹を見上げた時、視界の片隅で奇妙な動きがあった。穏やかに吹いた風で微かに揺れた枝葉の中で、何かが動いたような気がしたのだ。けれど、目を凝らしてみても見えるのは豊かに生い茂る濃緑の葉と僅かに覗く太い枝だけだった。
『トール、どうかした?』
いつの間にか後ろまで来ていたクロの声に、トールはようやく巨樹から視線を外した。
「いや。それにしても、本当に面白い場所だな」
『ここは僕のお気に入りの場所だったんだよ。すごく静かだから昼寝するにはちょうどいいんだ』
共に行動するようになってから知った事だが、クロはのんびりと昼寝をするのが好きなのだ。それも陽光が暖かく差し込む所や緩やかに風が通る場所など、心地よく眠れる場所を探し当てる。
「……確かに、一眠りするにはちょうどいいかもしれないな。次はもっと早い時間に来てみようか」
トールは手を翳しながら空を見上げた。太陽は随分と傾いているが、沈むまではまだ時間がある。暗くなる前にもう少し周囲を見て回りたかった。
『せっかく来たんだから、少し休んでいこうよ』
「私もそうしたいが、夜は肉無しというのも嫌だろ?」
手持ちの食料も少なくなってきた。今日の夜は問題ないが、それも茸や木の実といったものばかりだ。残念ながら肉は昼で品切れとなっている。
完全に日が落ちる前に鹿や猪あたりを狩り、食料を確保しておきたい。ここまでの移動に思ったより時間を費やしてしまった。この場に長居できない理由としては、こちらの方が大きかった。
『……お肉のために我慢するよ』
先ほどまで勢いよく振られていた尻尾が、途端に力無く下がってしまった。何とも分かりやすい姿にトールは苦笑しながらクロの頭を優しく撫でた。
「ここで昼寝をするのは気持ちよさそうだからな。次はもっと早くに来てのんびりするとしよう」
『うん。また今度こようね』
とぼとぼと歩き出したクロにトールも続いていく。再び樹海の中へ足を踏み入れた時、何気なく振り返って巨樹を見た。
何故か酷くざわついているような、そんな気がした。
******
その翌日。
木々や草花に隠れるように存在していた洞窟を前に、トールとクロは全く同じタイミングで首を傾げた。
「洞窟、だよな」
『洞窟、だね』
地面が隆起した後、長い年月を経て自然に出来たものだろうか。洞口部は巨体のトールでも問題なく通れるほど大きい。奥は真っ暗で何も見えないと思っていたが、天井部の一部が崩れているらしく幾筋かの光が差し込んでいる。ただ、途中で道が曲がっているため、ここから覗き込んでみても深部は目視できない。
事の発端は今日の昼前。トールとクロは二手に分かれて探索を行うことにした。両断されたような奇岩を集合地点と決めると、クロは何か美味しそうなものがないか探してくると言って勢いよく飛び出していった。
一方のトールは人間の痕跡を探しながらも、のんびりと樹海を進んでいた。殆ど知らぬ新たな土地はやはり新鮮なもので、あちらこちらに目移りしながら歩き回っていた。
クロが慌てた様子で走ってきたのは、胡桃に似た木の実を拾った直後の事だった。石板で炒った木の実もクロは好んで食べるから喜んでくれるだろうと思ったのも束の間、奇妙な洞窟を見つけたという言葉にトールも表情を変えた。
そうして案内されたのがここだった。クロもこんな場所に洞窟があった事は知らなかったらしく、外から覗き込むだけで足を踏み入れていないという。
「……入ってみようか」
そして、今。しばらくの間、じっと洞口を眺めていたトールが小さく呟いた。ちらりと視線を落とせば、顔を上げたクロと目が合った。
『何があるか分からないよ?』
「だからこそさ。何があるのか、自分の目で確かめたいんだ」
非常に興味深い洞窟を前に、トールの好奇心は膨れ上がっていた。これまでも樹海で洞窟らしきものは幾つかあったが、どれも人間の大人すら入れないような小さなものばかりだった。この巨体が通れるだけの大きさだったのは目を覚ました場所ぐらいなものだ。
『トールならそう言うと思ってたよ』
その回答を予想していたのか、特に反対する様子もなくクロは頷いた。足を踏み出したトールの背中を追うように歩き出した。
洞口部から覗き込むと、薄暗いながら奥へと続いているのが分かる。光源は差し込む光だけだと思っていたが、所々に発光している苔が見えた。夜目がきくトールにしてみれば、それだけでも大きな助けとなった。
トールは一歩ずつ慎重に進んでいく。洞窟内に入ると視界は一気に悪くなった。もしもこの身が人間だったら、ぼんやりと光る苔が見えるだけで何も出来ないだろう。怪物らしい飛び抜けた身体能力に何度目か分からない感謝をしながら、トールは後ろを歩くクロに声を掛けた。
「クロ、離れるんじゃないぞ」
『大丈夫だよ、トール。あんまり見えないけど匂いは辿れるから』
心強い言葉に安心しつつ、ゆっくりと足を進めていく。奥へ行けば通路が狭まって進めなくなるかもしれない、とも思っていたが見える範囲では問題なさそうだ。
そして、その心配はすぐに無駄なものとなった。
緩やかに曲がりながらも一本の道を進んでいくと、やがて大きく広がる半球状の空間へと辿り着いた。天井はさほど高くないが、トールがジャンプしても届かない程度はある。
『うわぁ……凄い、あちこち光ってる!』
歓声を上げて走り回っているクロの横で、トールは瞠目して周囲を見回していた。足元、壁、そして天井に発光性の苔が薄暗い通路とは比べ物にならない程に分布しているのだ。更には奇妙な形の茸も薄い青の光を放ち、こちらも苔ほどではないが多く生えていた。
その結果。人工的な照明器具には及ばないものの、この空間は驚くほどに明るかった。走り回る黒毛の狼の姿も問題なく見えるほどだ。
「凄いな、本当に。けど……ここが最深部なのか?」
見渡してみても、ここから先へ続く道は見当たらない。心のどこかで期待していた宝箱も見当たらず、奥のほうに大きな岩が一つ転がっているだけだ。思っていたよりもずっと早く探検が終わってしまった事は残念だが、これほど幻想的な場所を見れたのだから決して無駄とは思わなかった。
『トール! こっち、こっち!』
腰を落ち着けてこの光景を楽しもうとした矢先、突然クロが声を上げた。見れば、あの大きな岩の影から顔だけ覗かせていた。
「何か見つけたのか?」
のそのそと歩き、ぐるりと大岩を迂回した。クロの後ろから声を掛けた瞬間、トールは固まった。
飛び込んできたのは映画や漫画などで見たことのある大きな黒いマントだった。そこには二本の剣を十字に組んだ紋章が描かれている。胴体と下半身は殆ど隠れてしまっているが、頑丈そうな革のブーツを履いた二つの足首がはみ出ている。
両腕は長袖で覆われ、掌は革製の手袋に包まれている。露出を極力抑えているのは、樹海を旅する上で必須なのだろう。右手の先には無骨ながらも重厚な直剣が転がっていた。
頭部だけは何も着けていなかったのか、それとも外していたのか。白く、形の良い頭蓋骨がはっきりと見えた。
うつ伏せ姿に倒れている人間の白骨体を前に、トールはただ立ち竦んでしまった。




