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わたしは文字通り固まった。
大変なことにここ数年のゆるい田舎暮らしで公爵令嬢のアルトステラ・リンジー・ルーファスをすっかり忘れてしまっているらしい。
すぐに返事が返せない。
いや、それよりも何よりも状況に頭が全く着いていかないのだ。
あれ?わたしの今の格好といえば、手ぐしで軽く整えただけの降ろし髪に簡素な水色のドレスワンピースだけだ。
近頃気温が暖かくなってきたものだから、半袖にショールをかけただけだし、視界に入るトレイシーがわたしを認めた瞬間、みるみる眼がつり上がってくいくのが見てとれてひとり戦慄した。
ぐんぐんと笑を讃えながらこちらに向かってくる殿下にクロードはなにやら声をかけているが全く入ってこない。
な、なにが、いったいどうなっているのか。
朝の光を後光に携えて煌めく漆黒の髪とアメジストの瞳がゆっくりと近づいてくる。
ひいいと情けない悲鳴が上がりそうだったけれど、それをなんとか飲み込んで数回瞬きをした。
殿下はわたしのことを蛆虫かなにかのごとく嫌っていたはずである。
そのわたしになぜこんな笑顔を?
というか、殿下ともあろう方がこんな僻地になぜ?
「アルトステラ嬢」
「え、エルレイン殿下…。エルレイン殿下におかれましてはご機嫌麗しく…」
「そんな口上は必要ない。それに俺はもう殿下ではない。」
ようやく頭の片隅から確かこんなんだったはず、と口上を引っ張り出したところで愛しげに目を細める殿下に遮られた。
い、愛しげに?…いえいえ、気のせいに違いないわ。きっとゴミが目に入ったのよ。タイミングよくね。
そんなことよりも衝撃的なセリフがさらっと言われた気がするけれど、え?まさかね。
「えっと………まさか、エルレイン陛下になられたとか…」
たっぷり考えて恐る恐る口にしたところエルレイン殿下はアメジストを丸くしてから盛大に吹き出した。
えっと………はっはっは、とお腹を抱えて笑うこの麗人は本当に殿下なのだろうか?
もしかしたら全然別人ではないのだろうか。
わたしの知るエルレイン殿下は声をあげて笑うなんてことはもちろん、腹を抱えて笑うなどありえない方である。
殿下でも陛下でもないといっていたし、きっとそうだ。うん、そうであってほしい。おねがいだからそうだっといってください。
「はーーっ、相変わらずアルトステラ嬢は楽しいな。
俺が王になるなど天と地がひっくり返ってもありえない。」
「えっと……」
「俺は王位継承権を失った。
今はただのエルレイン・ヴァルドルフ・フォン・ネイトフィールだ。
………あーー、そうだな、王家から籍を抜かれていて、今はこの領地の隣の領地ハーディストと伯爵位を陛下より与えていただいているから、ただのエルレイン・ハーディストだな」
初めまして、アルトステラ・リンジー・ルーファス公爵令嬢さま
そう、あの日と同じように形の良い唇がすらすらと言の葉を紡いで、彼は膝をついた。
あまりの行動にひっと息を呑む音が聞こえたが、それはわたしのものか、クロードのものか、トレイシーのものか、あるいは全員なのか。
それからわたしの片手をそっと引き寄せて手の甲にキスをした。
………そういえば、何年か前にリヒテンが殿下がクズすぎて王位継承権剥奪されるかもしれない的なことを話していたような気もする。
すっかりうっかりすぽーんと全部忘れてしまっていた。
だってあれ以来リヒテンは殿下のことを頑なに話題に挙げなくなったし、あの3人の手紙にも殆ど(フローラの手紙にはたまに書いてあった気もする)書いてなかったのだもの。
ごめんなさい、ちょっと待ってください。
ぎぎぎと擬音が着きそうな首をゆっくり回して玄関ホールを見渡す。
いつもの優しい顔を消して眉間にシワを寄せる老紳士がひとり、顔を真っ青にするメイド長がひとり、もうずっと置物のように動かなくなっているメイドがひとり。
ねえ、誰か、教えてくださらない?
いったいなにが、起きているの?




