ゆらりとした炎(3)
次に目を開けた時、目の前には誰もいなかった。
洞窟内は白い煙で充満していた。けれど、息苦しさはない。体に魔力を纏うリュシュカの周りだけ避けるように煙はなかった。
洞窟は入口が半壊していた。手の縄を抜けて隙間からふらふらと抜け出すと、自分のいる山が、樹々が、爆炎を上げて燃えていた。
ああ、やってしまったんだ。
クラングランの大好きな山なのに。
最初に思ったのはそんなことだった。
それから急いで走った。すでに形を変えて欠けている山の縁へ行って眼下を確かめる。城や市街に被害はいっていないようだ。修行の成果なのだろうか。山も全壊していないし、思ったほど悲惨ではない。安堵で一気に力が抜けた。
疲れた。もう家に帰りたい。
そう思った時に、辺境の家ではなくラチェスタの屋敷を浮かべていることに気づいた。あそこにいる時は不満ばかりを募らせていたのに。ラチェスタの屋敷に帰りたくなった。
辺境の家に寄って、建物はまだそこにあるのにリュシュカの家はもうないのだということを知ってしまったのもあるかもしれない。
ラチェスタは厳しくて融通が効かなくて、けれど真剣にリュシュカのことを考えてくれていた。周りの人たちもいきなり来たリュシュカを温かく受け入れてくれた。
でも、帰る場所はもうないんだった。
また、失った。
ラチェスタはもういなくて、自分がイオラスとその配下を全員殺し、山を壊して炎上させたんだろうか。
その実感はぼんやりとしていてまだ薄い。
けれど、この山を降りれば現実となっていくだろう。
爺ちゃんがいろんなものを全部捨てて育て、教えてくれていたこと。ラチェスタがそれを引き継いで懸命に対応しようとしてくれたこと。大人が自分のために動いてくれたことを全部無にしてしまった。
なんだかもう、何もかもがどうでもいい。
リュシュカは座り込み、燃えている山の樹々をぼんやり見ていた。
白い煙。紅い火の粉。めきめきと木が燃える音。
すごく小さい頃、こんな光景を見たことがある。
それは、思い出すだけで泣きそうになるリュシュカの心の原風景だった。
あの時もリュシュカは炎に囲まれて泣いていた。
急にいろいろ思い出してくる。
悪い奴がおかあさんをひっぱって酷いことをしようとした。
リュシュカは怒って、やめろと叫んだ。
みんないなくなれって。
そうしたら、本当に誰もいなくなった。
周りは紅い炎に包まれていた。
おかあさん。どこ。
何度かそう呼んだだろうか。
それに返される声はなかった。
街に人はたくさんいたはずなのに、誰もいない。みんなリュシュカを嫌いで、だから逃げていなくなったのだと思った。
あの時、世界はリュシュカひとりだけになった。
だから、ずっと泣いていた。
誰もいないリュシュカの世界に来たのは、爺ちゃんだった。煙の向こうから来た爺ちゃんの手はすごく大きくて。その時のざらりとした手の感触も、光景も、全部はっきり思い出す。
爺ちゃんがリュシュカに初めて言った言葉は「うるせぇな。泣き止め」だった。
爺ちゃんはリュシュカをひょいと抱き上げた。
爺ちゃんの顔が怖くて余計に泣いて、爺ちゃんは「本当にうるせぇ」とのたまったけれど、決して離すことなく、そのままものすごい速さで街を駆け抜けた。
次に目が覚めた時も、やっぱり爺ちゃんがいた。
そのままその日も、その次の日も、ずっと一緒にいてくれた。
辺境の家でも、幼いリュシュカは何度か感情を爆発させることがあった。せっかく作った家が半壊したこともある。市街に住めないのは、リュシュカのせいだと知っていた。リュシュカが、危険な存在だから。
それでも、爺ちゃんだけはリュシュカを嫌うことも、逃げることもしなかった。
閉じていた目をゆっくりと開ける。
周りはあの時みたいに炎しかなかった。
でも、いくら待っても爺ちゃんは来ない。爺ちゃんはもう、どこにもいないのを知ってしまっている。
世界はまた、リュシュカひとりになったのだ。
いろんなものを壊してしまって、何もかもなくなったあと、そこにあったのは妙に静かな気持だった。
しんとした心のまま炎を見つめる。
自分はもう、誰かと関わったりしないほうがいいのかもしれない。ここにいれば、誰も来ない。
煙の向こう、どこか遠くで、ざ、ざ、と誰かの足音がした気がする。
リュシュカはそれを気のせいだと思い、また、ゆらりとした紅い炎に視線をやった。けれど、気のせいだと思った足音は、徐々に近づいてくる。
やがて、明確な人影となって煙の向こうから近づいてくる。
──爺ちゃん?
そんなはずはないのに、一瞬だけそう思った。
「リュシュカ、そこにいるか!」
煙の向こうから来たのは、クラングランだった。
「……クラングラン? なんでこんなとこに」
「クシャドが……お前が複数人にさらわれるのを見ていた。すぐに追ったが、思った以上に人数がいたので、この山に入るのを見届けてから団に援軍を呼んだんだ」
それなら、なぜわざわざクラングランが単身でここに……考えてすぐに腑に落ちる。彼より先に辿り着ける人間がいるはずがないからだ。
そうこうしているうちに、ものすごい音がして、すぐ近くに燃えて折れた大木が倒れてきた。
「このままここにいると危険だ。早く避難するぞ。こっちだ。ついてこい」
「……でも」
クラングランは咳き込んだ。
「何をためらってるのか知らないが、話ならあとでいくらでも聞く」
クラングランはリュシュカの手を取って引こうとした。
それでも、リュシュカの足は動かない。
「……お前といると、煙が来ないな」
「え?」
「俺には魔力はない。一緒に下りないと、煙で俺が死ぬぞ」
その脅迫はリュシュカの足を動かすには充分だった。
クラングランについて、山道を行く。
ところどころ煙で前が見えにくく、太い道は倒れた木や落ちてきた岩で塞がっていたが、クラングランには関係なかった。
風向きを見て一見道に見えないようなところに入り、細い枝は剣で切り払い道を作って下りていく。
やがてすぐに、舗装された山道に戻ってこれた。このあたりはまだ火もまわっていない。風向きで煙もなかった。クラングランは少しだけ歩調を緩めた。
ぽつり、額に雨粒の感触があり、空を見上げる。
隣で同じように見上げていたクラングランが言う。
「いい具合に降って鎮火すればいいな」
ほんのりした霧雨だった雨は激しさを増して、辺りを濡らし始めている。
「駆けつけた麓に黒づくめの不審者がゴロゴロいて、そちらはクシャドと団員たちに任せてきたんだが……心当たりはあるか?」
それはイオラスの配下たちだろう。
彼らはリュシュカが目を開けた時にはもうそこにいなかった。爆破で殺してしまったにしては死体の破片すらないので、おかしいとは思っていた。
「え……あ、たぶんわたしをさらった奴等だと思うけど……もしかしたら、わたしが……麓に全員飛ばしたのかも」
「なるほど、さすがだ。お前らしい」
クラングランは小さく笑う。
「なら不審者はおそらく全員エルヴァスカの人間だ。ラチェスタにもすでに連絡は行っている。すぐにこちらに来るそうだ」
「え?」
リュシュカが上げた素っ頓狂な声に、クラングランが怪訝そうに見た。
「ラチェスタ……殺したって……」
「なるほど。それであの爆発をやったのか……大丈夫だ。彼は生きている」
本当だろうか。確信に満ちた口調に少し気持ちが持ち直していく。
「クラングラン、麓に……構造色の黒髪で紅い瞳の……エルヴァスカの王子はいた?」
「エルヴァスカの王子が……? いや……俺は見ていないが……」
だとするとイオラスはまだどこかで生きている。
自分が殺せなかったというのに、考えただけで背筋が冷たくなった。
やがて、少しだけ開けた場所に出た。わずかに気が抜けたその時、ゆらりと人影が出てきて前を塞ぐ。
リュシュカは、ひ、と息を呑んだ。
「リュシュカ、ここにいたか」
イオラスだった。
ざあ、と降り注ぐ雨音が強くなる。




