Vol.66 『伝わってる?』
――私に。
自分の書いたものが自分自身にも伝わっているかどうかと、再開したのでこのエッセイを久しぶりに読み返してみた。
理解できたことにホッとした。
エッセイを書く、読む、読まれるって難しい。特に感情的になって書いてしまったものは、正直、自分で書いておきながら読み返すと支離滅裂になっていることがある。
書き溜めていた感情的な別の愚痴エッセイも読み返してみたのだが、意味がわからなかった。「こいつ大丈夫か…」なんて思ってしまうくらいに、遡れば遡るほどヤバイ奴だった。…理解できる文章を書いていたとしてもヤバイ奴かもしれないが、自分自身が一番相手にしたくもない奴になっていると改めて実感した。
前から面倒くさい奴ではあると思っていたが、本当に関わり合いたくない人間である――と思ったのだから、今はその時よりはマシであると思いたい……。
一体、何の話? ということですが、「こいつと関わり合いたくない」と思われる可能性が高いのはエッセイジャンルかな、と。読んでみて自分自身と同じような思考なら気にもしないのですが、違うとモヤモヤを積み重ねてしまいには存在をミュートしたくなる。
私自身どれくらいの人にミュートされているのかわからない(まあブロックも)ですが、ミュートするときってどういうときだろうかと考えると――…まずエッセイジャンルを漁っているときしか、ミュートを使おうや"ミュート"の文字が頭に浮かばないということ。
エッセイ作品を投稿しておいて言えることではないかもしれないが、
「正直、エッセイを集客の踏み台にしない方がいい」
と、よく思うことがある。
日常のあれやこれや、趣味嗜好の話、今はあまり見けないなと感じる(なろう)小説お作法ではほぼミュートしようやブロックしようは思い浮かぶことはないが、読者や作者――評価感想レビューについて書くことは危ういものだと思っている。
日間ランキングに「不毛云々」な作品がありましたが、不毛だどうだという前にミュートされるかどうかが一読者の私にはかかっている。読む作品が減る。
ただし、モヤモヤする内容を書かれてあるなと思ったからといって全てを"作品"ミュートするわけではない。
エッセイ本文と感想返信の差。
それで「あ…この人の考えわからん」で使用するのである。簡単に言えば、「言ってることとやっていることが違うのでは?」だ。
それか「ご自身のエッセイに書かれたことと他人の感想欄に書いてあることが違うと思う…」となると、受け入れられなくなってしまうのである。
ずっと評価感想レビューについてエッセイを書いたり読んだりで、次第に考え方が変わったり、変わったけど一周回って同じところに戻ってきたりしましたが、流石に"ついさっき"と思えるような時間差で変わるものかと不思議に思うのだ。
もっと酷いときは、
「この人の書く言葉は信用できない」
と、どんなに共感できる内容でももう評価することもないし、読むこともなくなってしまう。この人の考えはグニャグニャだ――と、八方美人ではないかと、人間性を見られてしまうのがエッセイであり、言い回し、言葉選びで一瞬にして反感を買ってしまうのが、同じ位置に立っている小説家になろうという場所について、作者という立場、または読者という立場からの発言。
要らぬお節介だろうけども、見られていることは意識した方が良いのではないかと思う。人様の感想欄に書かれた言葉も読む・読まないの判断材料になり、ミュート(ブロック)されるかされないか決められてしまうことがある。
たった一人、私が思うだけなら「ここに書いてあることなんて気にするな戯言だ」なのだが、エッセイジャンルに来る→読む→書くが集まっているんだろうと思うと、似たりよったりな考え方のユーザーが少なからずいる。私と似たような人が他にもいるだろうし、いたとしてその人が私と同じように交流をしないわけでもないだろう…。
ややこしくクドいことをずらずらと書きましたが、自分の考えはどういう風に伝わっているんだろうかと気にしたことはありますか?
伝わる言葉を書けたとしても、その書いてきただろう考え等に一貫性はありますか?
自分が一体どう考えているのか、自分自身で理解しているだろうか?
以上です。
('・ω・')
「頭にブーメラン刺さってますけど? その痛さをわかっててやっているのか、血まで出てるのに感じていない鈍さか……
関わりたくないというより、心配で心配で見てられなくなるのがミュートなのかもしれない。『ミュートは熟成させることだ!』なんて思ってもいましたが、『心配で』と自分の中で新しい考えにも辿り着きました。
私のこと…心配になったらミュートしてね」





