Vol.53 『一人称 感情入れて なんぼでしょ』
一人称で書くことはあまりないのですが、時々、気になる書き方があります。
台詞と同じことを地の文でも喋る。
もしかしたら、自分もやっているかもしれないのですが、自分のことよりも他人様のことはよく見える・気づくもので、ゲームのプレイヤーより見ているだけのほうが落ちているアイテムや謎解きの答えがすぐ出る――そんな感じです。
で、例文に使えそうなのがないかなあと自作品を探したのですが、気づいたのは台詞の量が少ないってことでした。
一人称というと、自分目線で進むのですが、三人称で書くより台詞は少なくなるのかもしれない。「えー」と言われるかもしれませんが、三人称は登場人物同士の対話、登場人物それぞれの行動を全部書くとして、じゃあ一人称は――…
そう考えると、一人称で書かれ、地の文が少なく会話で物語が進むように書かれた文章はある意味三人称なのでは?なんて思ったり。
ややこしい言い方しますが、三人称のくせに状況説明、情報量が少なくて結果――『登場人物が薄っぺらい』と感じさせてしまうのかもしれない。
一人称で必要なのは登場人物らとの台詞での掛け合いでなく、主人公の感情が書かれた地の文こそが大事になって来るのではないだろうか。
一人称ってこと、主人公目線の物語は主人公があってこそ。あってこそなのに、やたらと喋りまくっているせいで上っ面の人物像しか伝わっていないのかもしれないと考えると、一人称で書く旨味が出ていない……
三人称よりもより鮮明に脳内で動きやすいはずが、ずっと視点が三人称。手を目の前に上げたとしてもその図が目の前に手があるんじゃなくて、読者はいつまでたっても主人公の手元が見れないまま離れた位置で会話を聞かされている状態だ。
ずっと相手の顔を見ているか?ってことです。
複数の登場人物らと話しているシーンだとして、誰かと誰かの会話を聞いている時間も数秒ある、そのときに自分の思っていること目線、その相手の仕草をふと見る、それでまた思う、他の人はその仕草を見てどう思ってんだろうと想像したり――で、会話に加わってみたり。
一人称は三人称よりも忙しないのではなかろうか。
三人称だとそこの状況報告が大前提だとしたら、一人称は自分に見える、かかわる、かかわるモノ全てに対する感情を伝えないと、
「こいつ何やってんの?」
と言われてしまうだけではないでしょうか。
地の文を読んでもらず、会話文を読むだけで十分だわお前の小説――扱いになっている。
主人公は、登場人物らにではなく、読み手に自分アピールを出来ているでしょうか?
以上です。
('・ω・')
「読者が書き方について何を求めているのかはわかりませんが、自分が読者になったときどんな読み方をしているのかはわかるハズ……
そして、会話大出血サービスして書いてみて、『イマイチ状況が伝わって来ません』風な感想を貰ったことがある人はどのくらいいるだろうか…でも、『気軽に読めてちょうどいい』派もいるので読者ってのは自由であるのだと認識しておくこと、また自由に書いて書き直すのは作者の自由ってことだ。
自由と自由のぶつかり合い――私という国に入国して来たからには傍若無人な態度は許さん!
……と言えるぐらいには、作者さんは書くことに悩みまくっているのかしら?と思う今日この頃です」





