Vol.156 『批判エッセイ』
こんばんは。
あっという間にクリスマス。「クリスマスは少しお高めのケーキを食べる日」と思っている私ではありますが、環境が変われば、宗教が変われば、クリスマスに対する気持ちも考え方も違うものですね。
とまあ、何に批判的な意見を持っているのか肯定的な意見を持っているのか、その人の今まで過ごしてきた環境、経験、そして今現在どうなのかでも同じ人間であっても考え方が変わるものだろうと思います。
久しぶりにエッセイジャンル、ランキングを覗き、批判エッセイなるものを読みましたが、私が思ったことは「それで?」でしょうか。
批判した先――解決策といいますか、その作者さんなりの導き出した答えやどうしたらいいのかの策、もっと言えばその現状がどうして起こってしまったんだろうかという問題の深掘りがないように見えてしまうと、「ただ喚いているだけに見えてしまう」と思うのであります。
誰かに真剣に訴えたいのあれば、「アホ馬鹿クソ」やらの暴言を交えないことも大事なのではないかとも…。一つだけインパクトを与えるためにならまだ良いのかもしれない。強い想いを読んだ人に伝えるには取っておきの方法かもしれない。
でも、何度も作中に使われるのであれば、たとえ良いことを言っていたとしても見ている人に意味のわからない不快感を与えてしまうのではないだろうかと思うのであります。
私が不快に思ったそんな人間であります。
人に訴えかけたいときは、暴言……汚い言葉を使う必要はないのではないでしょうか?
その言葉以外を使って伝えることはできないのでしょうか?
今はそれほど書いていないですが、以前は汚い言葉を使って書くこともありました。"強い"と思われる言葉がそれしかないように……いいえ、「それしかない!!」と思って使っていましたが、誰かを説得したいとき、また自分が説得されそうなときに汚い言葉を使われると何とも言えない、どうしようもない気持ちになるのだな、と。
その言葉がこびりついて、正直、問題をしっかりと見ようと言う気よりも「そんな風に暴言吐かれたくない。怖いから肯定しておこう。離れよう。見なかったことにしよう――関係ない」とまで私は思ってしまうのであります。
本当に自分の気持ちを伝えたいとき、暴言は必要でしょうか?
と、思うのでありました。以上です。
ᕙ(☉ਊ☉)ᕗ
「不快にさせることが目的――そういう考えでそもそも文章を作っているのかもしれないけれども、ときにその不快な気持ちの矛先が違う方へ捉えられたり、向かったりするので、『どうしても伝えたいんだ!!』というときほど丁寧な言葉といいますか、冷静な言葉が必要なのかもしれません。
ただ、ランキングに載っているのを見ると、求められていたり、好まれているのは、暴言が使われている作品なのかもしれませんね。まー人が憤慨して喚き立てている姿を見るのは、野次馬根性が強いとただただ面白いしかない。
けれど、そのせいで所詮他人事となってしまうかもしれないので、言葉のさじ加減は難しいものであります。
私と同じように作中に書かれた問題よりも感想欄でどう受け答えされるのかの方が、問題を考えることより気になる人もいるかもしれません。」





