Vol.154 『そらねーわ…の状況を作ったのは誰か』
お絵描きしつつ、アルファポリスで読みつつ、そして「そりゃねーよ」と嘆く今日この頃な話。
アルファポリスで読んでいたのでありますが、重要なキャラが生きるか死ぬか……ヒロインの元へ無事に戦いから帰還できるのかどうかのいいところで話が終わったのは良い。次回がすごく楽しみだ。
けれど、いくらかスペースを開けた最後に「ちゃんと帰還できますからご安心を」的な文章はいらない。わざわざ書かなくてもいいと思うのである。
あらすじや前書き、後書き、タグにもネタバレ言葉を入れる作者は正直多いんではないだろうかと思う。今回読んでいたアルファポリスでなくとも、なろうでもムーンでも必ずと言っていいほどに見かけるし、そういう作品も読む。
でも、"ハッピーエンド"かどうか――これもビミョーなところだが――を教えられる以外は知りたくないなと今日は思った。
楽しみが減る。
しかし、作者さんが「ネタバレの言葉を書かなければ読まれない」もしくは「感想で先読みされたり文句を言われたりするかもしれない…」なんて思ったかどうかは知りませんが、追い詰めたのはたぶん読者側なんだろうな、と。
ずらーっと作品らを見ると、ハッピーエンドかどうかのタグを書くことが当たり前のようになっているし、ざまあの度合も丁寧に書かれてあることもある。
前書きに、「この話を飛ばしても話がわかるようになっているので大丈夫」そんな風に書かれてある作品にもよく当たる。
それでも読む。
読むけど、たまに「これの何が面白くて読んでいるんだろう」と自分自身の行動に疑問を持つときがある。謎。
最終回は勿論気になるし、出来れば最後まで読みたい。わくわくしながら次回を待ちたいし、悶々と焦らされながらも読み続けたい。
けど、作者さんの物語についての「大丈夫」は一体誰のためのものなんだろう? 何が大丈夫なのか? 読者――私の気持ちは大丈夫ではない。
なぜ、自らバラしてしまうんだい??
"ハッピーエンド"の一言で全部バレているようなもんだが、ハッピーエンドになるその過程までバラしたらその作品を読む価値はどこにあるんだろうかと思うのである。
作者にとって大事なことってなんだろうと思う。
作ったものを人に見られて思うことってなんだろう。
楽しみに続きを待っていた、見るのを今か今かと楽しみにしていたときにバラされた気持ちの恨みは結構でかい。むちゃくちゃでかい。意地でも見ないわと思うくらいに心に刻まれる(笑)
バラされて思うことは人それぞれでしょうが、「ええーここで終わり!? まじで!? ほんとに!? 信じらんない、終わるの早すぎ、もっと見たいんだけど!! 次回はいつよ!?」と良い意味で不完全燃焼でいたい…。
作ったものを人に見られて、見た人が楽しんでくれたら良いと思うだろうと私は考えるのだが、楽しみを削られて何を楽しみにすればいいのかわからなくなった読者はどうしたらいいのだろうか?
今回は、「キャラクターの生死について作者がバラしちゃった」でどうしようもない気持ちになってしまったのですが、生死にかかわらずネタバレをする作者さんを誕生させてしまったのは、きっとたぶん恐らく読者なんだろうなと思ってしまうと何とも言えない気持ちになるし、タグに"ハッピーエンド"を添えることがネタバレ作者とネタバレしてないと読まない読者を増やしたのかもしれないとも思ってしまう…。
バラしてしまう作者さんや、読む前に作品の内容をほぼバラしてあるのを好む読者さんがどれくらいいるのか知りませんが、じわじわじわじわ物語が自分に染み込んで来るのことが大好きな読者もいることを忘れないで欲しいです。
以上です。
୧(ಠДಠ)୨
「完結済みか連載中でも思うこと違うかなーと。完結済み作品だったら特に気にしないけど、連載中でしかも追っている作品だったらモヤッとします。完結作品も以前は連載中であるものですけども…(汗)
あとは、感想欄でネタバレしていても気にしないですかね。そもそも、感想欄を覗くか覗かないかは読者の責任だと思ってますし。
ただ、なろうにもネタバレ感想を『ネタバレ』で見えなくさせる機能があると便利だろうなとは思う。まあ、機能があってもなくても感想を覗くかどうかは読者が決めることなんで、感想欄でのネタバレは特に何とも思わない……思わなくなったって感じですかね。
もっと言えば、クレクレ問題が可愛く見えるほどに作者からのネタバレはキツイなと思う。」





