Vol.103 『ばーちゃんのアップルティー』
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戸棚に隠されたばーちゃんのアップルティー。
子供の時分では抱えなければ持てないアップルティーの粉末が入った缶は、魅惑の"カンカン"だった。
ばーちゃんが出かけてから私はいつも缶に指を突っ込んでは舐め、突っ込んでは舐めを繰り返し、そしてアップルティーを一杯だけ作って飲んだ。
これが幸せか――と思うほどにとても美味かった。
ある日、そんな幸せも底をついた。
そりゃあ、毎日繰り返せばなくなるものである。缶を持ち上げ、プラスチックの半透明な蓋に目を凝らさなくともわかる。それでもまだあるはずだと思って、またあるはずだと思って、明日もう一度見てみようと戸棚ヘ戻した。
いつ、ばーちゃんが気付いたのか、アップルティーの缶は戸棚から消えていた。ばーちゃんからのお咎めはなし。何もかも全てゆるされたようでゆるされていないような気分で私は戸棚を見つめた。
私からも怒られるかもしれないと怖くて言えず、戸棚には二度とアップルティーの缶は現れなかった。
ばーちゃんに聞けば良かった。
あれはばーちゃんにとってどんなアップルティーだったのか。密かな楽しみの一つだったのか、聞けば一緒に楽しい時間を過ごせたのか。
ばーちゃんのアップルティーは消えてなくなり、ばーちゃんの気持ちも知らないまま、ずっと私の記憶に飾られている。
もし私が言っていたら、ばーちゃんの笑顔も一緒に思い出になっていたかもしれない。
もっと美味かったかもしれない。
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今回はふと思い出したことがあり、言葉にしてみました。自分の記憶の中ってどうなっているんだろうなぁって、忘れていたわけじゃないんだなって不思議であり安心し、少しの後悔…。
物語を書くとき、自分の思い出から発展させて更に発展させ私小説?とすることと、何かの作品・歴史や事件に感化されて憧れて想像の妄想の積み重ねで作ることと、どちらが自分は書きやすいんだろうと考えれば私小説の方だろうなーていう、ただの確認だったのですが(汗) みなさんはどうですか?
私がエタりまくっていた原因はこれだろなって。更には私小説を書くにしてもそこにあまり盛れない。何でしょうね、ばーちゃんのアップルティー話に盛った…盛れたのかどうなのかもイマイチな後半の自分の気持ちですかね。盛ったといえない、今思い出して感じたことを書いただけになっているんで私小説どころかエッセイになるだけじゃないのかって感じですが(;´∀`)
作品がすごく薄っぺらく感じたり、胡散臭かったり、想像力・妄想力がたくましいと自分では思っておりましたが、たいした力でもないのだなって今思えばだからエタることが多かったのかもしれませんね。
ま、上に書いた事実であっても嘘っぽく見える人には見えるのだろうと思うと、自分の文章力といいますか説得力? 伝え方がいかに弱っちいかわかるなーなんて。
何が一番イヤかって、最後の一文でしょうか。あと一文、〆の言葉を置きたいと思って散々悩んで出てきたものが「もっと美味かったかもしれない」であります。これしか出てこなかった…。
そうすると何を思うか――
才能ないな、
であります。
別に悲観して言っているわけではありません。たまに書いて自分のことを知りたいってだけであります(・∀・) 今文章で書いたらこれだった、じゃあ絵にしたら自分はどれだけ想像できるんだろーと考える。
自分自身がどうやったら、今よりもっと想像の世界を広く大きくできるだろうと思ったわけであります。まずは、自分自身を見つめてから考え出そうかなって話でありました。
以上です。
୧( ಠ Д ಠ )୨
「やはり絵かな。
書くのは楽しい、描くのは悩ましい。
そんな感じです」





