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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
蝦夷と日本
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蝦夷と日本 2

 1950年。

 極東においては高句麗国が目覚ましいまでの成長を続けていた。

 その勢いに、東アジアの誰もが注目し、困窮する日本から高句麗を目指す者たちも居た。その多くは戦前、戦中に当時の朝鮮からやって来た者たちであったが、それだけでなく、中には豊かさを求めて高句麗へと向かう日本人も居た。

 しかし、高句麗へ渡った彼らの生活は悲惨なものであったことが、後に判明している。


 高句麗における反日はすさまじく、日本の排工貴農によって高句麗へ逃げ出した技術者であっても、日婢と蔑まれ、ただただ自らの知識や技術を半ば無償で搾り取られるだけの状態であったという。もちろん、その様な優秀な知識や技術を持たない者たちに至っては、鉱山や工場、農場における使い捨ての労働力になるしかなかった。

 ただ、その様な事実が日本で報じられるようになるのはかなり後の事であり、移民政策の一環として毎年数万人単位で高句麗へ渡る日本人たちが居た事が記録にある。その内の多くは悲惨な労働環境に置かれ、今日まで生きながらえな者はごく僅かしかおらず、今では日本で人権問題として盛んに運動が行われているが、彼らは一切取り合おうとはしない。もちろん、どの政府に言えば問題が適切にテーブルに乗せられるかすら誰にもわからない状況となっているのだが。

 ただ、国民一般には知られていなくとも、日本における被差別階層と化した有識者や富裕層にはかなり早い段階から情報が回っていたと言われ、日本を離れる優秀な者たちが蝦夷を目指す理由ともなっていた。


 そんな日本の状況を、実のところ誰も憂いては居らず、非武装化と非工業化の達成を喜ぶ者たちばかりが並んでいた。


 そんな1951年9月、米国サンフランシスコにおいて、日本の非武装と中立を保証するための会議が開催されることとなった。

 しかし、この会議における「日本」とは、明治時代において大日本帝国であった領域と定義され、当然そこには蝦夷も含まれるというのが、西側諸国の解釈であった。


 当然ながら、せっかく太平洋への出口を得たソ連が、その様な会場へと足を運ぶはずがない。それどころか、保障条約によって中立が確定する以前に自国の影響権を拡大しようとしたのは自然な行動であったと言って良いだろう。


 この事に付いて、当時の蝦夷においては全く考慮されてはいなかった。


 当時、蝦夷政治の中枢にいた軍人、官僚、政治家たちには日本やGHQへの恨みやねじ曲がった天皇崇拝しか存在していなかった。

 もしかするとそれ自体がスターリンの手のひらで踊らされているだけであったのかもしれないが、当事者たちはそうは考えなかった。


 日本においては天皇による人間宣言と全国行幸が行われ、各地で盛大に迎えられていたのだが、その行事は同時並行して技術者の排斥や工場の破壊を伴うものとして行われていた。

 GHQはそうした混乱を抑えるために、工廠や兵器廠、財閥の工場施設などを軒並み接収して米国支配地として取り込んでいった。


 当然、蝦夷へ逃れた人たちには、この行為がとてもではないが受け入れられなかった。


 そして、その様な支配から天皇を救い出し、「正しい日本の再興」を図ろうとする動きが活発化していくことになる。

 この運動をソ連は一切制止しなかった。それどころか、蝦夷人民軍の要望の多くを叶えてやり、兵器供与まで行っている。

 そして、1951年2月には蝦夷第二代総帥となった鳩山一郎によって日本解放計画がスターリンへと示され、時を置かずに承認されてる。

 この承認の報を持ち帰った鳩山は、すぐさま作戦発令を行い、6月25日には奥羽本線を利用した電撃作戦が開始されることとなった。

 当然ながらその動きを全く察知できていなかった日米は事態に対応が出来ず、その日のうちに仙台は蝦夷軍によって占領され、翌日には酒田へも上陸を許す事態となった。


 もちろん、非武装の日本が何かできるはずもなく、さらには重点を高句麗へと移していた米軍も全く対応が取れる状況にはなかった。

 そもそも、建国されたばかりの蝦夷が侵攻して来るとさえ考えてはいなかったのだから。


 その為、7月を迎える頃には新潟への上陸も許し、日本政府による拒否にあって米軍は鉄道爆破も行えずに宇都宮へと蝦夷軍が進軍する状況となっていた。


 しかし、蝦夷軍の快進撃もここまでだった。


 高句麗駐留米軍のうち、海上部隊が日本海へと展開し、蝦夷軍の海上部隊を封じ、新潟への増援が送れなくなる。

 さらに、蝦夷軍首脳部は日本本土の交通事情を考慮して重量20トン以下の戦車を要求していたので、ソ連が誇るT34は蝦夷自らその導入を拒否していた。その為、大戦終了でほぼスクラップ行きであった米英からの供与戦車が充てられ、蝦夷軍の主力はバレンタイン歩兵戦車であった。

 とてもではないが、これでは1950年代の戦場を縦横に走り、電撃戦を行うなど土台無理な話である。


 こうした蝦夷軍首脳部の戦略ミスに助けられた米軍の反撃によって、1952年2月ごろには仙台へ上陸した米軍によって侵攻軍が孤立し、日本海へ展開した海軍による海上封鎖で新潟へ上陸くした蝦夷軍も孤立無援の状態になっていた。


 この時、日本政府は東京から天皇を伴い京都へと避難していたが、責任を問われた吉田茂は有名な「バカヤロー演説」を行い退陣してしまった。

 事態を重く見た米国はその後すぐに日本政府に対し、最低限の自衛力の保有を要求するが、憲法や条約を理由に首を縦に振る事は無かった。

 

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