鳥人から始める飛行機開発史 4
さて、気を取り直して二宮忠八についてである。
もはや語る事はないと言えるほどに語りつくされているかもしれないが、忠八は幕末の伊予の国、現在の愛媛県八幡浜に生を受けている。
彼もまた、子供のころから気球や鳥に興味を持ち、空を飛ぶことをあこがれていたと言われ、飛行模型などを作り飛ばしていたと伝えられている。
そして、1887年に徴兵によって香川県丸亀にやって来た彼は、当然のように鳥魂祭りの事を調べようと八浜を訪れるのだが、この頃の鳥魂祭りは岡山藩という後援者を失い、さらには幸吉や通賢という優秀な研究者も喪失していたので、ただそこにある鳥神輿の漸次的な改善と神輿の継承のみを細々と行う状態であった。
その為、確かに八浜八幡宮にある鳥人庵の資料は当時世界最先端ではあったが、有効活用されているとは言えなかった。
この状況を見た忠八は、なぜか悠々と飛ぶその姿を見て落胆していたという。
多くの書籍において、それは最先端史料が活用されていない事への嘆きだと解釈されているが、実際には「自分よりはるか先に空を飛ぶことが普通になっていた」事への落胆であったと、当時の忠八の周辺の人々の間では言われていたという。
その為、彼が本格的に飛行機に関わるのはさらに2年を要した。
その間に海外の情勢を調べ、まだまだ空を飛ぶことが一般的では無いという現実を再確認してようやく、新たな目標である「動力飛行」という課題を立てて、飛行機開発へと乗り出していくこととなった。
ただ、結果的にこれが日本の航空を決めたともいわれ、もし、忠八が遅滞なく本格的な滑空機の開発や普及に尽力していれば、日清戦争頃には軍事利用が出来ていたとまで言われている。
しかし、当時の忠八には滑空機への興味が無かった。あくまで動力飛行に拘っていた。
その結果、「すでに八浜に鳥神輿があるのに、新たな神輿を作ろうとしているのか?」といった、無理解な人々による非協力を招く結果となっている。
今から思うと、世界初の滑空飛行を幸吉が成し遂げ、さらには忠八が動力飛行に挑もうとしているのだから、もろ手をあげて支援しそうなものだが、実際にはそうはなってはいなかった。
結果的に、周囲の理解が得られなかった忠八は、まず滑空機を神事以上の実用的な物へと発展させる決意を固める。それが1892年の事だったという。これが世に言う「空白の五年間」である。
この5年の間に機体の本格的開発に着手していたならば、動力飛行でもライト兄弟に先を越されていなかったとさえ言われる。
そう言われてしまうのも仕方がない。
この後、日清戦争へ従軍した忠八は、上空からの偵察が出来ればどれだけ優位性があるかを認識し、上司へと掛け合っているが、鳥神輿以上の現物がない中では、同意はされても心からの賛同や本当の意味での理解がされていたかというと、怪しいものだった。
この後鳥神輿から改良された滑空機は、1898年には高度500メートルまで上昇出来る性能を持ち、30分にわたる滞空に成功している。もし5年早く開発を始めていれば、日清戦争後、彼が提案した軍事利用についても理解がひろまり支援も行われたのではないかと言われるのも頷ける。
この実績から、忠八によるグライダー開発が軍に認められたのは1900年の事だった。
ここから気球よりも自由に空を飛べ、任意の地点を偵察可能になるという将来構想の下、陸軍の協力で開発が本格的にスタートした。
こうして、八浜八幡宮にある鳥人庵は陸軍の研究施設となり、以後「軍機」として戦後まで多くの資料が秘密のベールに隠されることとなってしまったが、世相を考えれば仕方がなかっただろう。
当初は児島湾において試験が行われたが、すぐに手狭となり、燧 灘へと場所を移す事となった。
この燧灘と言えば、瀬戸内のさらに内海であり、海軍も訓練でよく利用していた。そうした事から飛行試験を目撃する事も多く、1902年には海軍も飛行機研究に参加し、歴史的にも珍しい陸海軍の協力が実現している。
こうして、1904年にはまだ危険をはらんだ状態であったグライダーが旅順上空を偵察し、港内の艦隊の損害状況を正確に伝えるという世界初の航空偵察を成功させている。
この当時、旅順攻囲を行っていた第三軍司令官である乃木希典は香川県善通寺に司令部を置く第11師団長を務めた事があり、さらにはその第11師団が第三軍に加わっていたことから、乃木には滑空機への知見があり、当時唯一、飛行機の運用能力を有していた第11師団が運用した事が、偵察飛行成功の要因であったのだろう。
こうして成功裏にグライダー部隊が軍に受け入れられると、忠八の主張する動力飛行機にも俄かに注目が集まり、その資金も十分に手にできることになった。
こうして、日本初の動力飛行が1906年6月10日に行われている。
その機体は既に滑空機として実績のある物を原型としていた事もあり、すぐさま軍にも採用され、現在のモーターグライダーに準じた運用が始まっている。
こうして動力飛行を成功裏に行った忠八であったが、その直後に、すでにライト兄弟が2年半前に動力飛行していたことを知ると航空機開発の職を辞し、軍も退役している。
その後の忠八は「空白の五年」を悔い、飛行機発祥の地である岡山県玉野市において幸吉の屋号でもあった表具備前屋の名を冠したグライダー会社を創業、順調な発展を遂げドンドン空高く飛び、高速化する飛行機とは一線を画した安全で誰でも操縦が可能な滑空機の開発と販売に尽力するようになった。
そのおかげか、八浜八幡宮で行われる鳥魂祭りの鳥神輿は表具備前屋の機体が使われ、鳥魂祭りそれ自体も日本全国へと広がっていくことになった。
表具備前屋と軍の関係も全くなかった訳ではなく、表具備前屋のモーターグライダー(実質的には軽飛行機)を陸海軍共に初等練習機として採用していた。
さらに、幸吉や通賢の研究記録や治政の手記は一級資料であり、鳥人庵は陸軍航空の発祥の地であるとともに、表具備前屋が児島干拓地に建設した風洞設備は、戦中に至るまで重要軍事施設としての規模と設備を誇り、この施設から生まれた「イケダダクト」は日本機の性能向上に無くてはならない技術であり、戦後、日米特許紛争の焦点でもあったことは、あまりにも有名である。
何故、二宮の名を冠せず、しかも幸吉の姓とされる浮田や通賢の姓である久米ですらない池田なのか。忠八は何も語ってはいないが、もとは鳥神輿に付けられた三角穴や丁髷樋口であることから、一般的には、鳥人庵をひらいた藩主、治政に因んでとされている。が、「一般的な知識」であるNACAダクトを治政が鳥神輿に取り入れていたからだとする主張もある。
実際、「イケダダクト」について、忠八は三角穴や丁髷を空力的に解明しただけとする解説も存在している。
閑話休題
鳥魂祭りの全国的な広がりもあって、夏の海と言えば鳥神輿で飛んで遊ぶことが人気となり、戦前、多くの海岸では大小さまざまなグライダーが飛行する姿が一般化していた。
戦後も表具備前屋の主要商品が小型滑空機であることから、GHQによる禁止令の例外となり、夏の風物詩が消えることなく今に残されることとなった。
元来、鳥神輿とは池田治政が発見した地面効果によって高度10メートル未満の低空域を飛ぶ飛行艇であった。
忠八はその機体へ発展を続ける航空工学を導入することで、より手軽で安全に飛ばせる滑空機として形にし、竹や木材と布を用いて比較的安価に販売されていた。
現在ではプラスチックへと材質が置き換えられ、より耐久性が上がるとともに、小型エンジンやモータ―を用いた本格的な地面効果翼機へと発展を遂げている。
そんな表具備前屋の現在のベストセラーは組み立て式地面効果翼滑空機「トビウオ」である。
もしかするとこれこそが、池田治政が追い求めていた理想の形であったのではないか。幸吉が頭を抱えた真の理由が、「空高く飛ぶ」ではなく「水面を滑るように飛ぶ」事を求められたからだとすれば、治政転生者説というのは、案外本当であったのかもしれないと思えてくる。




