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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
鳥人から始める飛行機開発史
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鳥人から始める飛行機開発史

 1800年頃に始まり、江戸時代には奇祭として取り上げられたこともある、岡山県玉野市八浜八幡宮の鳥魂祭りがどのような経緯で始まったのかは、今や知らぬ人はいないものと思われる。


 しかし、この奇祭は有名ではあったものの、戦前には軍機に触れる関係から大々的に報じられることは無かった。


 戦後、二宮忠八にまつわる書籍や日露戦争を描いた小説において取り上げられたことから、全国的に「再認識」されるようになっていった。


 事の発端は1785年までさかのぼる。


 その年の夏、29歳になる腕の良い表具屋であった幸吉は、かねてから研究を重ねていた滑空機を飛ばそうと、岡山城のおひざ元にある京橋へとやって来ていた。


 幸吉はそれまで鳩を参考にした羽ばたき機を製作し、郷里玉野は八浜八幡宮において実験を行っていた。

 しかし、人の腕力では羽ばたき機を支える事は出来ず、一度も飛ぶことは出来なかった。


 そんな彼は表具師としての腕を買われ、後楽園でのふすまや障子の張替などの仕事を請け負うほどのであり、その腕を生かして、竹を骨組みとして和紙や布を用いた羽ばたき機を製作していた。


 そして、羽ばたき機が無理と分かった幸吉は、それならばタカやトンビのように滑空できないかと考え、タカやトンビを観察し、その翼を人の背丈や体重に合わせた大きさでもって再現する事に成功した。


 その大きさは翼長9メートルに達したという。


 その滑空機を八幡宮で飛ばしてみたが、上手く飛ばす事は出来なかった。


 そんな折、仕事で訪れた城下町において通りがかった旭川に掛かる京橋の下を吹き抜ける風に気付き、ここなら飛ばせるだろうと時期を見て橋から飛ぼうと準備を進めた。

 そして夏のある日、夕方の京橋においてそれを決行し、約50メートルほど飛んだとされている。


 ちょうど河原では多くの町人が夕涼みをしている時間帯でもあり、制御できずに夕涼み客の前へと墜落、騒ぎとなり、城下町、それも城のすぐそばという事もあってすぐさま捕縛されることとなってしまった。


 当時、このような騒乱を起こせば間違いなく死罪は免れないモノであったが、時の藩主池田治政の耳に入り、詮議の途上で藩主からの詰問が行われたという。


 池田治政と言えば、松平定信による質素倹約令を無視して放漫政策を行ったことで知られ、蘭癖といわれる島津重豪との交流もあった人物である。

 そんな彼が幸吉の事を耳にして黙っているはずもなく、自ら詮議する役人へと質問状を送付し、すぐさま回答を求めても居る。


 その結果、幸吉が鳥に興味を持ち、空を飛ぶための研究をしていたことを知ると、自ら乗り込み、問答を行ったという。

 慌てる藩士らを余所に、治政は幸吉を自身のお抱え表具師として騒乱の罪を不問に付し、八浜に鳥人研究の庵を設けることを認めている。

 そして、内々に鳥人方という役職を設けて幸吉から定期的な報告を受けることとなった。時には幸吉の報告に対し、様々な質問や指摘、疑問を送って困らせたともいわれている。


 二人のそうした関係は治政が隠居すると変化があり、治政自らお忍びで鳥人庵を訪れること事も行われるようになる。


 1800年頃には八浜八幡宮の麓に幸吉が作り上げた滑走台が備えられ、毎日のようにそこから飛ぶ姿が目撃されるようになっていた。

 そして時折50過ぎの坊主が飛ぶ姿が目撃されていたと言われるが、それが本当の事かどうかは分からない。


 幸吉の飛行実験は既に飛距離数十メートルではなく、飛行時間も伸びるようになると、周囲で騒がれるようになっていった。その騒ぎに対し、藩から藩政の一環であると周囲には説明され、1805年頃には治政の発案によって夏に八幡宮の祭りとして鳥魂祭りが行われるようになる。

 いくら藩の事業といってもすぐに騒ぎが収まるはずもなく、より説得力のある方法として、神事と拡めることで収めようとしたのだと云われている。


 この鳥魂祭りだが、社殿での祝詞では「とりみたま」として奉じられるのに対し、祭り自体は「とりこん」と呼ばれ、双方には相違がある。

 これについて、鳥魂祭りを発案した治政が、祭りの名前を「とりこん」と称し提案するも、八幡宮では豊穣を願い、害虫を払うために空を舞い「みたま」を奉げることから「とりみたま」と称する相違が生まれた。


 ただ、祭り自体は「とりこん」との呼び名で当初は白装束の幸吉が空を舞い、あくまで飛行試験のカモフラージュとして行われる程度のモノであったが、いつしか祭りの際には幸吉だけでなく、周辺の村からも手作りにより参加する者が現れ、1815年頃には今に繋がる祭りの原型が出来上がったと言われている。

 

 鳥魂祭りは仮装の一種として鳥を模して飛ぶ(飛び込む)ことが大半であったが、幸吉やその師弟など、本格的な滑空機を飛ばして、時には数分に渡って飛び続けたという記録も残されている。


 もちろん、これは世界最古の滑空機の飛行事例として今では認知されているが、当時はあくまで岡山藩内における奇祭としてしか認識されていなかった。


 ただ、その奇祭の中身は呪術的な代物ではなく、近代的な技術研究の場であった。


 表具備前屋として常には表具屋を営んでいた幸吉のもう一つの顔は鳥人庵において飛行機研究を行うエンジニアとしての顔であった。


 彼のまとめた資料には、すでに揚力や飛行に必要な作用に関する記載が多く、航空工学の父と言われるジョージ・ケーリーと対比されることもある。

 しかし、幸吉の研究成果を本当の意味で纏め上げ、今から見ればサークル活動的な滑空機研究から、本格的なグライダー開発へと昇華させたのは、海の向こう、讃岐のエジソンと呼ばれる久米通賢によってであった。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] >>祭り自体は「とりこん」と呼ばれ そして年々参加者がレベルアップして主催者の想定以上に飛行距離が伸びて毎年ルールを改訂する羽目になるんですね、わかります。
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