村田騒動記 2
村田は国産連発銃を開発するにあたって、再度各国の技術を概観するために渡欧した。
そこで各国で無煙火薬式の実包研究がすでに完成間際であることを確認しているのだが、帰国した彼が行った事は、黒色火薬を採用した英国軍の制式弾となった303ブリテッシュ弾と同規格の弾を採用する事であった。
そして、この弾を用いた連発式銃として、これまた英国制式ライフル、リー・メトフォードを大きく参考にしている。
リー・メトフォードを参考に開発された二十二年式村田連発銃では、10発弾倉を備えるが、日本の生産力と工作技術から着脱式弾倉とはせず、丁番による開放型としている。
こうして採用された黒色火薬を使う二十二年式村田銃は、当然のこととして早期に旧式化する。
もちろんの事、村田もこの事実は織り込み済みであったようで、無煙火薬の研究を促進し、早期に無煙火薬化へと舵を切るのだが、後任となった有坂成章らはより扱いやすい小口径弾の採用を模索し、村田と対立する事になった。
新たな口径の弾を採用すると、現在の製造設備が無駄になると主張する村田と、そもそもに二十二年式実包が過大だという有坂らとの対立は根深く、村田は辞表を叩きつけて退官し、村田銃工業を設立して独立してしまった。
普通に考えれば有坂が勝利し、彼の推進していた小口径弾が採用されそうなものだが、実際にはそうならなかった。
物別れに終わった新小銃問題であったが、紆余曲折の末、三十一年式歩兵銃として無煙火薬化村田銃が採用された。
欧米の技術動向に目を光らせていた村田は、フランスが新式野砲を開発していることも見逃していなかった。
対立する有坂は小銃だけを開発していた訳ではない。当時、幕府軍や薩長軍が雑多に導入していた野砲類の整理、そして、維新後の陸軍が保有した野砲類を無煙火薬式の新式砲で一新するための新型野砲の開発も担当しており、フランスが開発中の駐退機を備えた画期的な新型砲の情報は、有坂にとっても喉から手が出るほど欲しかったモノだった。
村田はその情報をネタに、有坂から次期歩兵銃の権利をもぎ取ったと言われている。
日露戦争前の日本で独自に駐退機を開発、製造するのはさすがに不可能だったが、駐退機の資料を手にした有坂はフランス側と交渉し、見事、M1897野砲のライセンス権を獲得し、三十三年式野砲として制式化する事に成功した。
その後、速やかな部隊配備を必要としたため、村田銃工業は積極的に米国から工作機械を導入し、大量生産体制を整えて三十一年式歩兵銃の生産や三十三年式野砲の部品製作に邁進している。
もちろんそれだけでなく、とうとう制約なく銃器開発が出来るようになった事から、猟銃の開発、製造も開始し、自ら販売も行うようになった。
そして、日露戦争が始まると、村田は渡米している。
一説には、対米工作の為に派遣されて政治的な工作を行ったと言われているが、その実態についてはよく分かっていない。
分かっている事は、戦争が終わると米国に村田銃を販売する村田USAと言う会社が出来ていた事くらいであろうか。
当時、ウィンチェスター社では自動小銃の開発が行われ、小口径弾を用いたM1903が開発されていた。
彼はその発展型であるM1907を手に帰国し、独自の自動小銃開発を始めることになるのだが、このM1907は後に米陸軍の軽小銃計画で注目され、M1カービンとして採用された原型モデルである。
M1907では、ウィンチェスターが新規開発した30ウィンチェスター弾が使用されており、M1カービンよりも威力がある7.62×37と言うサイズであり、弾頭が軽量で、中間威力高速弾であった。しかし、当時市販していたブローバックモデルには不向きであり、すぐにより反動を抑えた弾を用いたモデルに置き換わってしまっている。
この銃を持ち帰った村田は様々な作動方式を用いて、この弾を使って壊れにくく使いやすい銃を作ろうとしていた。
が、その話をする前に語るべき話題が存在している。
村田が渡米しているその最中、日本国内では三十一年式歩兵銃の改良が行われていた。
この改良指示は村田が日本を離れた隙を突くように出されたモノであり、陸軍が歩兵銃開発から村田を外すために行ったモノともいわれている。
実際、改良指示を受けた南部麒次郎はその機構を大幅に変更し、メトフォード式と呼ばれた機構をモーゼル式へと変え、ボルト部品点数も世界で最小クラスである5点とする物へと、基本機能以外のほぼすべてを変えてしまっていた。
それを知った村田は造兵廠へと乗り込み、南部に拳銃を突き付けている。
造兵廠を訪れた村田は、制止を振り切り、押し留めようとした者を時には叩き伏せてまで南部の元へと向かった。
だが、突き付けたと言っても、銃口を向けたわけでは無かった。
当時、米国で販売されていた最新の拳銃複数を南部に提示したというのが正しい表現だろう。
だが、それは受け取り方によっては「突き付けた」と言って間違いではない。
南部麒次郎と言えば南部拳銃で有名だが、彼の拳銃は当時の米国で市販されていたものに明らかに劣っていた。それを突き付けたわけだ。
だが、それと共に彼が開発した三八式歩兵銃を絶賛している。その上で南部に対し、「自分が資金を出すから、これらを参考に納得のいく拳銃を作り給え」と、突き付けたわけだ。
村田「やあ、御社のライフルはなかなかマニアックだね。でも、こうやればもっと良くなるよ」
win技士「怪しい東洋人」
win幹部「まあまあ、褒められてるんだ。話くらいは聞こうじゃないか」
村田「で、どうだい?」
win技士「むむ。ボックスマガジンにさらなる機構の洗練さ。なかなかやるな。東洋人」
win幹部「ところで、君の名前は?」
村田「そうだった。銃器業界を大いに盛り上げるジョン·ムラタニングをよろしく!」
wix幹部「ジョン。これ、君の知り合いかい?」
ジョン「いや。変わった名前だな。しかし、何だこれは。ただでさえチートばっかの時代にさらなる転生者とか勘弁してくれ···」
win幹部「生まれ変わりがなんだって?」




