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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
ドン亀の軌跡
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ドン亀の軌跡 2

 水中機動試験艇は1934年5月17日に瀬戸内海で行われた潜航試験で24.85ノットを記録し、この記録は25年破られなかった。


 この様な優秀な性能を示したのだから、さぞ意欲的な開発が行われ、その後も日本の潜水艦史を変革していっただろうと考えてしまうが、全くそんなことにはならなかった事は、少し調べればわかるし、後の潜水艦を知る我々からすると落胆するのである。


 さて、水中機動試験艇がどのように生まれたのかをまずは見ていきたいと思う。


 1931年、前年に結ばれたロンドン条約によって主力艦だけでなく、補助艦艇にも厳しい制限かかせられることになった。これによって巡洋艦以下の保有も規制され、当時日本の仮想敵国であった米国との戦力差が明確となり、仮に戦争になった場合に勝利する見込みが非常に低く見積もられていた。


 こうした状況の中で条約外の戦力によって敵を漸減しようという構想が持ち上がる。


 一つは言わずと知れた航空機であり、96式陸攻や97式飛行艇としてその目的が達成されることになる。


 そしてもう一つのアイデアが、水中からの攻撃であった。


 そのアイデアと言うのが、魚雷を人が操縦することで確実に命中させようというモノだった。


 しかし、当時の海軍にはそのような自爆兵器を採用しないという正常な判断力があり、人間魚雷ではなく、小型潜水艇として計画がスタートする事になった。


 当初の計画が人間魚雷であることから当初は魚雷部がその開発を主導し、潜水艦設計者は関わっていなかった。

 ところが、1932年に模型による試験を行っていた際、たまたま潜水艦部の課員がそれを目撃し、魚雷部が潜水艦模型の試験をしている事が潜水艦部で問題となってしまった。

 その様な経緯があり、潜水艦部も計画に関わる事になり、主に若手が開発に合流して設計、試験に関する技術習得を行う形となる。


 一方の魚雷部ではベテラン勢が参加していたので、その温度差は激しく、双方の不信感が増すばかりの状態となった。


 そんな中で実際の開発要目が話し合われ、あまりに小さな船体に53センチ魚雷を2本も搭載する計画には潜水艦部から多くの疑念や不安が噴出する事になった。

 その状態に、ベテラン勢が関わる魚雷部では不信感から感情的な不満へと変わり、なかなか決まらない要目に対して激発してしまう事になった。

 

 魚雷の権威、エース、ベテランと言った自負を持つ技官たちがそこまで言うならばと潜水艦部の若手へ設計を丸投げしてしまう。

 そうして1933年に完成した試験艇は潜水艇としての強度や艤装には問題ないものの、艦の安定性を著しく欠く事から無人試験すらマトモに進められない状態であった。


 そうなる事が分かっていた魚雷部では、その失態を持って開発の主導権を取り戻そうとしたのだが、潜水艦部の若手の一言から、再度の設計機会を一度だけ与えることとなった。


「不安定な原因は魚雷のような狭小な構造に潜水艦として必要な要素を詰め込み過ぎたからだ。いっそ、潜水艦でも魚雷でもない全く別の発想で設計をしてみたい」


 その様な、魚雷部からすれば願ったりの素人の思い付きであったという。


 当の発言者自身、自信を持って発言したという訳ではなかったが、魚雷と言う小さな船体と潜舵しか持たないフネではそもそも安定した航行など出来ないと考えていた。そして、水中とは言っても大きさが飛行機と変わらないのだから、翼を付けて()()()()()()()どうなるのだろうという好奇心からの発言であったという。


 こうして、航空機の操縦系統を投入した新たな設計の試験艇が製作される事になった。


 魚雷部にとっては発言も実際の試験艇も嘲笑の的でしかなかった。


 その潜水艇は魚雷のようなスマートな船体ではなく、旧態依然としたホランド型潜水艇を思わせるズングリした船体と、なぜか魚か鯨のような腹ビレが取り付けられていた。


 魚雷部メンバーとすれば、そんなものが計画要目を達成できるとは思えなかった。


 しかし、実際に海上に浮かべてみると予想外に安定しており、水上航行能力は低いものの、水中航行能力は自分たちが開発しようとしていたものとそん色ないものだった。


 この結果は潜水艦部を喜ばせ、技術的にも酸素魚雷開発が始まった魚雷部が片手間で開発を行える状態ではなくなっていた。


 こうして誕生した水中機動試験艇はA標的と言う秘匿名称を持って開発が継続し、1936年には実際に魚雷の搭載と試射を行うが、排水量50t程度の小型艇では1.6tにもなる潜水艦用魚雷を運用するのは無理があった。

 潜水艦部においては当然に予想された事であり、結果を待たずにより大型艇の開発が始められていた。


 A標的の試験において、魚雷発射以外の部分では大きな不具合は無く、その魚か鯨のようなシルエットは模型による追試験においても、縦長の船体よりも抵抗が少なく合理的であることが判明し、新たな潜水艇にも反映されることになる。


 そうして1938年に進水したのが第71号艦であった。


 排水量は5倍の250トンに増え、全長も倍近い44mになっていた。


 計画ではA標的同様に水中速力25ノットとされた。


 当時、ドイツより航空機用ディーゼルエンジンを輸入して搭載することとされていたが輸入が出来ず、国内にあるエンジンで代用する事となったのだが、同程度の出力と寸法を持つ物が無く、低出力に甘んじるしかなかったが、紡錘形の余裕のある船体を利用して主機を3基積み、以前から問題であった減速機の不調を考慮してディーゼル・エレクトリック方式として発電専用とすることで減速機問題を無理やり解決する道を選んだ。

 こうして、容積を大幅に超過する事にはなったが、所定の出力を得たものの、初のディーゼル・エレクトリック方式という事でその部分にも不具合が生じたため、計画水中速力25ノットは達成できず、21ノットに甘んじることになってしまった。



 

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