える・しぃ・えす!
自動砲の話とはまた別のストーリー
76ミリや127ミリではない、全く別の艦砲のおはなし。
軍艦の呼称は日本語に訳せないものがある。
コルベットやフリゲートがその最たる例だろう。
ならば逆はあるだろうか?
今では寿司や天麩羅、すき焼きは立派に英語にもなっている。わざわざ英語に訳すととんでもなく情緒の欠けたモノになるほどだ。
軍艦にもそうした呼称が一つだけある。
掃討艦というのがそれだ。
米国では20世紀末にストリートファイターコンセプトという新しい時代の海軍の在り方が提唱された。
その後、2000年に発生した駆逐艦襲撃事件によって当時の重厚長大な海軍艦船には隙がある事が判明し、その備えとして小型で小回りの利く艦艇計画が持ち上がった。
米国での当初の呼称はLittoral combat shipという立派な英語ではあったが、その構想は遥か70年前の日本のそれと大きな違いが無かった。
沿岸域における敵性小型船舶の掃討と警戒を任務とし、必要に応じて哨戒、護衛、対地火力支援などを行う。
構想が進むごとにその内容が70年前の日本海軍のそれと酷似するに至り、Soto Kanという呼称が定着していく事になった。
この様な経緯を経て建造された掃討艦は満載排水量3800t、全長128m、速力40ノットと、日本が建造した掃討艦と比較してかなり大型化、高速化しているが、時代の違いを考えればそれも当然だろう。
では、米国が21世紀に建造する掃討艦の元祖といえる日本海軍のそれがどのように生まれ、どう発展していったかを見ていくとしよう。
掃討艦の発想が生まれたのは1932年の事であった。
第一次上海事変において複数の巡洋艦や駆逐艦が被害を受ける大惨事となった上海沖海戦において、大型化の一途をたどる駆逐艦が小型高速のボートに対して小回りが利かず、さらに速力の劣る旧式艦の被害が大きく拡大してしまった事によって、高速で小回りの利く小型艦艇が求められたことにあった。
当時、中華民国が保有し、日本海軍を攻撃したのは後にドイツ海軍に就役するSボートの前身であった。
1927年に個人向けモーターヨットとして建造された高速艇の性能に、当の造船所が軍事転用を着想し、第一次大戦で成果のあった魚雷艇を発展させ、航洋性を持った小型戦闘艦を設計した。
それは、黎明期の駆逐艦をモデルとし、2本の魚雷発射管を備え、備砲若干を持つというものだった。
1928年に完成したそれは満載排水量60t、全長27mという大きさで速力33ノットというものだった。
武装も45センチ魚雷発射管2本を備え、船首に2センチ機関砲、船尾に5.2センチ速射砲を備える比較的重武装であった。
その提示を受けたドイツ海軍では興味は示すものの、45センチ魚雷では威力不足と評価し、53センチ魚雷を搭載するより強力な魚雷艇の開発を促す。
ただ、実物の試験を行うために1929年に海軍予算によって1隻試作され、その試験を行った海軍では高評価を行う事になる。
そして、自国での採用は行わなかったが、試験場所を探し、当時内戦が行われ政情不安であった中国への販売を意図し、中華民国へと接触を行った。
中華民国側も試験データに満足したらしく、10隻というまとまった発注を行い、1931年中にその引き渡しが行われ、ドイツから教官も招いている。
日本でもこの動き自体は察知し、中国が新たに小型艇を取得した事は理解していたが、河用砲艦という認識しか持たず、まさか海に出てくることは無いと考えていた。
その為、1932年に引き起こした上海での戦闘において、海軍は情報こそ受け取っていたものの、比較的速い砲艦であり、海へ出る様な事はないと警戒していなかった。
ところが、実際には6隻の魚雷艇が揚子江を駆け下り、上海沖合に展開する日本艦隊へと襲撃を敢行した。
全く予期しない襲撃に艦隊は当初混乱し、駆逐艦が対処に乗り出すモノの、小回りの利く高速艇には対処しきれず、逆に5.2センチ砲の砲撃で被害を受け、運悪く魚雷に被弾した2隻では誘爆を起こして沈没している。
この沈没がより大きな混乱を招き、更に速度に劣る旧式艦が狙われた結果、更に巡洋艦3隻が雷撃を受け、防護巡洋艦対馬までもが沈没してしまう。
この打撃に艦隊を一時下げた事で地上での戦闘にも影響が出たほどで、急報により駆けつけた航空隊が魚雷艇を完全に排除するまで数時間にわたってその混乱が続くことになった。
この当時の派遣艦隊の編成では高速の魚雷艇に対処できないとされたが、より深刻だったのは、大型化した新型駆逐艦では小回りが利かず、旧式駆逐艦では追い付けないという性能上の問題だった。
偶然のこととはいえ、魚雷艇の備砲で駆逐艦の魚雷が誘爆した事も衝撃を与え、魚雷艇へ対抗する艦は魚雷を降ろす事まで真剣に検討されていた。
この当時、先年に結ばれたロンドン条約によって駆逐艦の保有数が制限を受けた事からその規定外に当たる小型艦である水雷艇の建造が行われており、この水雷艇を魚雷艇排除に使う構想が持ち上がったが、速力の問題とそもそも砲攻撃力のある魚雷艇を相手に多数の魚雷を抱えるのは不利であることから、魚雷を撤去し、旧式ではあるが軽量小型の保式6斤速射砲を持ち出し副砲として4門搭載し、主砲も十一年式12センチ高角砲ではなく三年式12センチ平射砲で妥協しているが、機関強化によって35ノットの高速力を誇る専用艦を設計する事となった。
原型となった水雷艇のような重武装を必要とせず、より高速発揮のために低姿勢、低重心の設計を行ったため、従来の水雷艇や駆逐艦とは全く性格が異なるものとなり、従来の呼称を付与するには馴染まず、新たに考えることとなった。
そうして生まれた掃討艦という名前は、駆逐艦との混同を避けるために新たに考え出された名前である。
掃討艦として最初に設計された奄美は水雷艇千鳥に遅れる事3ヶ月後、1934年2月に竣工した。
奄美型掃討艦は20隻計画された水雷艇の枠を利用して建造され、最小限の改装で53センチ3連装魚雷発射管1基を搭載可能とされていた。
しかし、水雷艇計画自体が水雷艇友鶴の転覆事故によって大幅に狂い、1935年にロンドン条約が失効する見込みとなったことから、水雷艇の建造自体が取りやめられ、掃討艦のみの計画へ変更され、最終的に掃討艦12隻が建造されることになった。
掃討艦の開発に当たって、魚雷艇や武装モーターボートの掃討を行う当座の武器として6斤速射砲が装備されはしたが、旧式であることは当初から問題視されていた。
しかし、当時は替わりうる兵装というのが海外を見回しても存在しておらず、新たに開発する運びとなった。
まず検討されたのは40ミリ前後の大口径機関砲であった。
もう少し時代が下ればドイツやイタリアの3.7センチ機関砲や有名なボフォース40ミリ機関砲を採用していたかもしれないが、1932年においては未だどれもが開発中や開発前であり、導入する事は出来なかった。
そして次に検討されたのは、主砲と副砲の混載という現状を変え、単一砲とするために8センチから10センチクラスを搭載する事だったが、これには沿岸域での活動という観点から疑義が出た。
8~10センチというのは陸軍や陸戦隊でも運用する野砲と同じ口径であり、弾薬の融通は利くとしても、火力支援を行うには火力不足になるというのである。
対地支援を考慮すれば12センチないし12.7センチ砲を主砲として搭載する砲が有利であり、譲れないというものだった。
結果、主砲は12~13センチクラスを2~3門搭載し、6斤速射砲に代わる副武装を新たに導入するという決定が行われた。
そうなると、海外に要求を満たす兵装が無い事から新規に開発する事が決定され、口径をどうするかという話になったが、魚雷艇の積む速射砲の射程を考慮して37ミリ以上とされたがなかなか決まらず、果ては8センチ高角砲の後継となりうる高角機関砲という話まで飛び出す始末だった。
この論争に終止符を打ったのは、千鳥型や奄美型の設計を主導した藤本喜久雄であったという。
彼は6斤速射砲と同じ57ミリであれば8センチ高角砲の射程に迫る機関砲が作れ、魚雷艇への有効な打撃力という点でも申し分ないと唱えた。
そして、1934年3月に発生した友鶴事件において、設計に問題があったのではないかという意見により謹慎処分となって暇を持て余した彼が個人的に設計したのが、後の九六式55口径57ミリ速射砲である。
設計と言っても彼が主として設計したのは自動装填機構であり、既存の半自動装填尾栓に対応する物であった。
その構造はボフォース40ミリ機関砲によく似ており、機関砲というよりも自動砲といった方が正しい。
開発に当たって、砲についても最新技術を導入して自緊砲身を採用することで軽量に仕上げられ、自動装填機構を備えながらも比較的軽量に収まっていた。




