一宮飛行機の軌跡 4
架空戦記創作大会、お題は辻ーん
ん?
あ、隼です。
戦後、航空機製造が解禁されると一宮ではすぐさま活動を開始している。
そして、1954年に創設された航空自衛隊でも米国によるF86供与を断り、四式戦闘機を手直しして運用する事を伝えている。
おりしも、日本の政権がソ連に近しいと米国が見做したこともあって、警戒されるとともに、ある種見放された状態で国産開発が容認されることになった。
一宮ではその事情を知るとすぐさま四式戦闘機の改設計に入り、エンジンの試作を始めている。
驚くことに1957年には機体もエンジンも完成し、すぐにでも量産できる状態となる。
確かに四式戦闘機は戦時中、戦後すぐに開発されたジェット戦闘機の中でも十分な性能を持つ機体であったのだから、そのままでもある程度通用すると言われても納得してしまう。
実際に完成した機体は戦時中の粗製乱造を前提にした簡易型ではなく、熟練工が時間を掛けて作る事を前提にした作りに改められ、戦後利用可能となった素材への置き換えなども各所に見られたが、外観はほぼ四式そのものだった。
一方のエンジンはと言うと、こちらも戦時中手に入らなかった耐熱合金を用いて推力を強化した以外、JR3の設計、構造をそのまま継承している。
こうして1957年に初飛行したF1戦闘機は米国も驚くことに、時速1100kmを叩き出し、運動性もF86と大きな差が無いモノだった。
とはいえ、すでに超音速機を開発、飛行させている欧米と比べればその差は大きく、JR3は遠心式であるため、発展性も乏しかった。
これに替わる軸流式エンジンとして、JR2を耐熱合金にしたものが製作されたが、推力では大差ないものだったため、信頼性への不安から採用されることなく、当時、米国に輸出を拒否された超音速機の自主開発へのステップとして開発が継続されていくことになる。
この頃の親ソ路線によって、日本は米国から警戒され、技術供与も最低限とされたが、1959年には親ソ路線を完全に捨てた新政権が発足し、大きな混乱の中で安保条約の改定が行われたこともあって関係は好転していくことになる。
そんな1961年、大きな事件が起きる。
あまりにも有名な辻隼飛行隊事件である。
国会議員であった辻は4月下旬、視察で訪れていた東南アジアで消息を絶った。5月中旬になっても帰国せず、家族からの要請で捜索、調査が行われたが、4月21日に僧侶に扮してラオスに向かったという情報以後、プツリと足取りは途絶えてしまっていた。
それが5か月後の9月20日に大きく新聞紙面を飾る事になる。
彼が生きている事がそれで判明したが、場所が大きな問題であった。
そして、それ以外にも問題を抱えていた。
辻と分かる写真には隣に「カタンガ隼戦闘機隊」という墨書きがあり、後方にはその名の通りに、先の戦争で活躍した一式戦闘機「隼」と見られる機体が10数機並んでいるのが写り込んでいた。
この写真は墨書きの通り、当時内戦が勃発していたコンゴより独立を宣言していたカタンガ国において撮影されたモノであり、カタンガ政府が招き入れた傭兵空軍であることが判明した。
撮影された時期は9月初旬であるらしかった。
最初に写真を入手したのはフランスの記者で、日本語が読めなかったが、顔から東洋人であること、プロペラ機に日の丸らしきものが見えた事で、日本の通信社に問い合わせ、そこに写る人物が失踪した辻である事、後ろの機体が戦時中活躍した「隼」であることが判明した。この時、記者が日の丸と誤認したものはカタンガ国国旗を丸抜きした認識章の上半分しか確認できなかったからであった。
そして、日本の通信社はこれを各メディアに辻の生存情報として配信し、9月20日に紙面を飾ったという訳だ。
しかも、その2日前に国連事務総長機が墜落した事もあり、辻たちの仕業ではないかと大きく騒がれることになる。
現在、辻がいかにしてコンゴに渡ったかは解明されていないが、米国の公開された機密文書によれば、5月初めにラオスで中国共産党と接触し、どの様にかして機体や人を集めてコンゴへ向かったという事らしい。
未だ詳しい事は不明な部分が多いが、中国、日本国内の勢力が関与しているのは間違いない。
この事がまた、米国をして日本を警戒させることになる。
当時、米国は前任大統領がカタンガ国を支持し、ソ連へ傾倒するコンゴ政府を批判していたのだが、コンゴでは政変で親ソ政権から親米政権へと変わった事により、虐殺や傭兵の大量雇用による紛争激化に走るカタンガ国を見限る方向へ転換していたさなかだった。
それもあって、辻の行動、あるいは中国の行動は大きな警戒を生むことになる。
その頃のアジアにおいては辻の行動と国連事務総長機事故を結び付けた対日批判が大きく巻き起こっていた。
コンゴにおいても、旧式機とは言え、まとまった航空戦力をカタンガ国が備えた事は脅威だった。
おりしも、コンゴに展開する国連軍は事務総長機事故の前日に部隊の一つがカタンガとの交戦によって拘束されていたのだから尚更だ。
この拘束を引き起こした交戦において、カタンガは航空機によって国連軍基地を攻撃している。
それらも辻らによる犯行である可能性が非常に高かった。
国連ではこの事実から、戦闘機部隊の展開を決め、各国への派遣要請を始めている。
初めに要請を受けて展開したのはスウェーデン、イラン、フィリピンの3国だった。
国連とカタンガの間には兵士解放に向けた交渉も行われたが、その交渉を嘲笑うかのように航空攻撃は執拗に続いていた。
10月初めには現地に到着した戦闘機部隊による辻一味の制圧が行われたが、参加したイラン、フィリピンの派遣したF86が返り討ちに遭い、4機撃墜される惨事を招いた。
その後、一旦は交渉にる兵士解放と戦闘停止の合意がなされたのだが、散発的な衝突は続くことになる。
そして、明けて1962年2月26日、国連軍基地は爆装したプロペラ機による襲撃を受け、駐機していた戦闘機や輸送機、ヘリなど大半が被害を受け、航空戦力が壊滅してしまう事態に陥った。
前年の交戦によって日本周辺国が対日批判を強める中での出来事だっただけに、その衝撃は大きく、日本周辺に留まらない対日批判へと発展していくことになった。
現在判明している米国の史料などによると、辻の目的はコレであったらしい。
対日批判によって新たな戦雲を作り出し、そこに燃料を注いで戦争へと発展させる。
彼の読みでは、日本は絶対に早期に動くことなくサンドバックとなり、どこかで暴発して戦火を拡げる筈だった。
しかし、日本政府は彼の予測とは全く逆の決断をする。




