チハたん物語(take2)4
日本がノモンハン事件の衝撃で混乱していたころ、遠く欧州では新たな戦争が始まっていた。
ドイツがポーランドへ侵攻した事で英仏がドイツへ宣戦布告し、ドイツとの密約に従ってソ連もポーランドへと侵攻した。第二次大戦の始まりである。
この時、機動力を優先して甲虫の群は後方に取り残されるに思われたが、その不整地走破力は高く、信頼性も高かったことから意外な活躍をしている。
半年間の静寂を持って行われた西部戦線でもアルデンヌの森を走破する甲虫群は他のドイツ戦車より安定していた。
しかも、英仏の対戦車砲で当時の主力であったⅠ、Ⅱ号戦車などが容易に破壊されるのに対し、Ⅲ号戦車以上の強靭さを持つ甲虫はまさに突破戦車の名を体現する存在であった。
これに気を良くしたヒトラーが更なる大型多脚戦車の開発をポルシェに指示するが、いくらドイツといえど20tを超える大重量、75ミリ砲という反動や衝撃に耐える脚部を完成させるには至らず、マウスという名で50t級の機体のみが後世に伝えられるのみとなっている。
甲虫の活躍は英国にも衝撃で、その活躍に刺激されて英国でも新たな多脚戦車の開発が行われることになる。
こうして1944年に登場したのがマチルダⅡで、重量25t、速度25kmとマチルダⅠに比べると向上していたモノののすでに出現時期を逸していた。
装甲厚は60ミリとやや劣る上に主砲が榴弾砲の25ポンド砲では如何ともしがたかった。それでもノルマンディ上陸に際してM4と並ぶ活躍を見せたことが有終の美といえただろう。
多脚戦車は機構が複雑で速度が出ないことから反攻作戦では以後全く活躍の場を無くしてしまう。
対するドイツにおいては開発される新型戦車の車高が高くなるにつれて、駆逐戦車型の運用で利点を見出す事が出来るようになる。
射撃に際して機体を地面に降ろす必要はあったが、後ろ脚で姿勢制御をするような運用は日常的に行われており、開発時に懸念した程の負担ではなかったことが伺われる。ただ、歩行状態で射撃を行う事は姿勢を乱し転倒の恐れがあるため、やはり避けるべきであった。
ドイツが西部戦線で甲虫を運用して戦果をあげている事はソ連にも刺激となり、強度と防御力を増した25t型の開発が指示されたが、コーシュキンはその完成を見ることなく過労でこの世を去ってしまう。
コーシュキンの遺作ともいえるNT4が完成したのは独ソ戦が始まって後の事であり、76ミリ砲の装備と防御力を強化したBT10と共に対独戦の主力として活躍している。
NT4は重量を増した事によってNT2時代の装甲厚になったが、傾斜装甲によりその防御力は一層高く、NT3で排除された自動装填装置も復活し、4発をクリップで束ねて側面から装填することが可能となる。
NT4の開発に合わせて成形炸薬弾も用意されて積極的な対戦車攻撃も可能となったことで対独戦での活躍は目覚ましいものがあった。
ただ、冬戦争や継続戦争でフィンランドに鹵獲されたNT3が多数存在した事から、北部では一方的な待伏せに晒されることも多く、その砲弾の有効性が逆にアダとなる場面も存在している。
ソ連においてはBT10やKV2に続く戦車が軒並み傾斜装甲の採用や低姿勢化していくことからNT4の利点は1944年にはいる頃には薄まりつつあり、反攻戦における機動力の低さも問題となった。
特に戦場がソ連国内から東欧に移ると機動力の低さは顕著となり、1945年にはNT4の生産ラインはBT10に代わって採用されたT34という新型戦車のために大幅に縮小されてしまう事になった。
このT34が戦後ソ連戦車の雛型となる箱型車体、お椀型砲塔であり、85ミリ砲の威力は既に82ミリ迫撃砲では如何ともしがたいものとなっていた。
ソ連においてはコーシュキンの死去に伴って制御機構の改良作業は停滞してしまい、NT4を超える機体の製作が行われることは無かった。
ノモンハン事件以後の日本において、チハの活躍する場面は太平洋戦争まで待たなければいけない。
中国大陸においては九五式や九八式のような機動力に優れた戦車が主役であり、チハを必要とするような縦深陣地にあうことは無かった。
1941年12月に始まった太平洋戦争では、チハはその姿勢制御を生かしてマレーやフィリピンへの上陸に投入され、橋頭保を築くと共に敵地侵攻に活躍する。
反撃に出た米英の戦車は主にM3軽戦車であり、チハや九八式改の薄殻榴弾の敵ではなかった。当然だが、M3の37ミリ砲でチハが破壊されない事も証明されることになる。
戦線の拡大と共にチハの展開地域も広範囲に広がることになったが、整備性の問題から多くの地域で早々に撤収する事態となってしまう。
多脚機構は戦車はおろか航空機よりも整備には気を遣う精密機械であり、当時の日本軍には大量運用は無理であった。
唯一、ビルマにおいてはその悪路では多脚の相性がよく、戦車としてより専ら輸送に利用されることになる。
侵攻したのが山岳地帯であったため、戦車より自由度が高いチハは縦横に活躍し、英国が持ち込んだマチルダⅠを多数撃破している。
薄殻榴弾の威力は絶大で、M3中戦車を含む英軍装甲車両の多くは道なき道を行くチハの遅滞戦闘で撃破され、マラリアに次ぐ被害を英軍に与えている。惜しむらくはそのような活躍にも拘らず貧弱な輸送路による補給の途絶で日本兵の多くも命を落とし、司令部の稚拙で希望的観測ばかりの指揮によってその戦果による効果を全く生かす事は出来なかった。
そして、日本では戦局の悪化と共に多脚戦車を支えるべき高品質の鋼材の入手も難しくなり、生産性の悪さから1943年には製造中止が決定し、翌年にはすべてのラインが一式中戦車用に転換されてしまった。
その為、わずかに残った保守部品の製造のみでチハの運用を支える状況となったことから広範囲に展開させることが難しくなり、ビルマに展開する分を除いて満州や本土へと引き上げが始まる。
その為、米軍反攻に伴う島嶼部の戦いには全くチハは残されていなかった。
チハの残滓は九八式が装備した短砲身57ミリ砲と薄殻榴弾だけといって良かっただろう。
急いで開発された長砲身57ミリ砲を備えた一式中戦車も、M4相手には力不足であり、薄殻榴弾を用いる方向へと転換してしまう。
薄殻榴弾は爆薬さえ確保できれば希少金属や高度な製造技術を必要としなかったため大量生産が行えたが、弾殻が薄い為に榴弾効果は低く、一概に優秀な砲弾だったとも言い難い面がある。




