らのべっぽいみたいな回想録 7
政治が混乱して機能せず、軍や警察が何とか満州での騒乱を抑えていた。
さて、九州空襲で四発爆撃機を迎撃した海軍の戦闘機については未だに多くは公表されていない。
当時、海軍が制式化して配備していた戦闘機は九六艦戦かゼロ戦だったが、九州に配備されていた機体はまだ多くが九六艦戦だった。
しかし、当時佐世保周辺では黒い機体が多数目撃されている。海軍の資料でも黒い零戦が確認できるのだが、その存在についてはあまり資料は残されてない。
物語において、このゼロ戦についても詳しく描かれており、これは幻の二一型だという。
ゼロ戦の型式は先行試作型の一一型、量産試験型の二一型、量産型の三一型などを見る事が出来るが、二一型は幻と呼ばれ、生産機数も少なく、すぐに戦列を離れたためにそれに搭乗したパイロットの話などもほとんど伝わっていない。
二一型に乗った人の感想は総じて良く、量産型の三一型を「駄作になってしまった」と貶める意見が多い。
三一型以降しか知らない多くのパイロットには非常に好評なゼロ戦だが、二一型に乗ったという人たちからは総じて評判が悪くなっている。
彼らの話は判で押したように、表面処理が不思議な黒い編み物を用い、他のゼロ戦に比べて軽量にも拘らず強度は五二型と変わらないかさらに上だったという。制限速度も700kmと、六三型と変わりがなかったという。
しかし、資料がほとんど残っていない幻の型式だけに、俄かには信じがたい。
物語にもこのゼロ戦は登場しており、カーボンゼロとの名前が用いられている。
カーボン。
日本で戦後に開発された炭素繊維強化樹脂の事で、研究は戦前には始まっていたというが、1941年に生産できたという記録は何処にも残されていない。
物語においては未来人の研究所にあった機械を用いて生産が行われたが、60機分の製造を行ったところで保守部品が枯渇して、部品の製造ないしは製造設備自体の新規製造なしには生産が出来なくなったのだという。
しかし、当時の技術力では部品や製造設備が作れず、その開発から始めなければならなくなったのだという。
そのため、予定していた1000機の生産は中断され、素材が確保できた60機についてどうにか生産に取り掛かる事が出来たという。
しかし、整備を考えれば60機丸々生産する訳にも行かず、結局40機の生産で残りは補修部品としすることになった。
生産された40機の二一型は、他の型では肉抜きされた無数の桁材や補助剤が用いられているのに対し、主桁などの主要骨材にカーボン補強材を巻き付けることによって補強材を減らし、外板もカーボン板を用いることでより軽く滑らかな外観を得る事が出来ていたという。
カーボン板は強度が高い外板であるため、張り付けるリベット数も少なくなり、骨材のリベット数と合わせて、他の型式に比べて三割ほど少なく、重量も主力となった六三型に対して400kgも軽く、それでいてほぼ同等の強度を有していたという。
そうであれば非力と言われる初期の栄エンジンでも軽快に飛べ、F8Fとさえ戦えたのではないかと言われている。
しかし、製造が困難な上、保護塗料にすら事欠く状態だったことから1943年には外板の多くが劣化してしまい、飛行停止処分を受け、その年のうちに廃棄処分になったという。
物語においてはカーボン材の量産が出来ていれば改良された栄エンジン1500馬力を載せた六三型を三一型程度の重量で製造でき、13mmと20mm混載ではなく、20mm4丁だっただろうという。
カーボン製六三型の試算もそこには記載されているが、重量2.5tでカーボン製の防弾版まで備えて速度は600kmに達するとしていた。二一型の速度も545kmだったとしており、如何に性能が良かったかがうかがえるという。
二一型が幻となっているのは降着装置の取り付け不具合によって尾部補強の結果、量産型を三一型からとした為というのが通説であり、黒色は夜間戦闘機ないしは、当時実験された電波吸収材塗料だったといわれている。電波吸収塗料は金属粉や化学物質を含んでおり、塗布に吸着布の張付けが必要だったため、網目が見えた事は写真からも解明されている。ただ、あまりに速度低下が激しかったことで実用化には至っていないが。
幻の二一型がカーボンゼロだったという話は、なかなかに面白い。現在日本に残るゼロ戦の中でも三一型は非常に脆弱で、レーシングワークスチームからカーボン補強による耐久性向上案が提案され、実施された事例があり、そこから着想したのだろうと思われる。




