三賢人の日本史・17
1879年、大日本連邦憲法の発布を見届けた徳川斉昭が亡くなった。
憲法草案は多くの者たちが関わっていたが、その骨格となる案を一人で考え出したのが斉昭だったと小栗は書き残しているが、斉昭は全く誇る事もなく、静に発布を見守っている。
憲法の根幹となったものは慶喜の将軍就任いらい行われてきた政策の集大成と言えるモノで、特に目新しいものはないとされ、その内容を見ると果たして斉昭がひとりで骨格を作り上げたのかは疑わしい。
その後の日本の政治体制の根幹となる列藩議院と士族議院の設置は斉昭によるものとされているが、二院制議会を設ける発想が当時の武士にあったとは思えず、欧米を足しげく回った小栗が起草したものと言うのが通説である。
とくに列藩議院は欧州の民主主義を見るまでもなく雄藩合議制の延長として発想出来るが、士族議院と言う発想がこの当時の武士に出来たとは思えない。欧米を幾度も訪問し、実際に複数国の政治家と言葉を交わした小栗ら外交官にしか理解できない考え方だと思われる。
この士族議院がイギリスの様な庶民院であるとか、アメリカの様な下院と言った言葉で記されなかったところには、確かに斉昭の考えが反映されていたのだろう。議会政治においてこれよりしばらくの間、おおむね武士が担う事になるのだから、町人、農民、商人が参加する事は考慮されていない。
と言うのが一般的な見方ではあるが、伊藤俊輔の献策によって高杉晋作が創設した奇兵隊の考え方が取り入れられ、士分を持つ者であれば誰でも士族院議員の立候補資格を持つと当初より明記されており、我々が思っている以上に間口は広かった。
他国との大きな違いは、近代国家の形態を整えた後も兵農分離を基本とした武家政治を継承したため、第一次大戦に至るまで国民皆兵が実施されなかったことにあるかもしれない。
結局のところ、今に至るも徴兵とは士分を対象とした武芸鍛錬と言う認識であり、日本が未だに国民国家では無いと言われる所以ともなっているが、これは幕政改革によって近代国家建設がなされ、市民革命を経ていないのだから当然なのかもしれない。
その体制を象徴するのが将軍職から欧州で言う所の国王へと体制が変わった事だろう。憲法において天皇は大神として祭祀を司り、国の運営は大君という新たに設けるいわば国王が行う事となった。
この大君は征夷大将軍から変じて律令に代わって憲法を制定するという建前から設けられたもので、それまで令外官であった征夷大将軍を律法に取り込むことを目的としていた。
この規定によって日本の形が明確となり、斉昭の唱えた「日本の形」が実現する。
大君は欧州における王家に相当するが、その制度は幕府末期の体制を継承して専制君主と言うほど強くはない。政治の中心は議院であり、大君はその決議の承認と発布を担う。
こうして始動した新体制がまず動いたのは、1881年のハワイ王訪日であった。カイウラニ王女と皇族の婚姻を望むカラカウア王に対し、大君家の者をと言う話を持ち掛け、斉昭の十七男である徳川慶斉に嫁ぐことを決めた事で天皇と大君の関係が明確となった。
カイウラニ王女との婚姻はアメリカ南北関係からも求められていたもので、この結婚によってハワイと日本は婚姻同盟を結び、南部連合の支援の下、ハワイから合衆国勢力を排除する事に成功した。
1882年には朝鮮戦争が勃発、李氏朝鮮で起きた攘夷運動や宮廷闘争に端を発した内乱にイギリス、ロシア双方が介入し、両国間の戦争に発展したものだった。
日本も戦争の拡大を警戒して樺太の防備を固めるが、これがロシアから見たら日本の参戦準備と見えたらしく、朝鮮へ振り向ける兵力を小出しにした結果、戦争はイギリス側勝利で終結する事となり、清がイギリスに対して空しく抗議する中、イギリスの属国となる漢城条約が締結される。
この頃の日本にとって大きな誤算は南部連合が綿花栽培を主とした軽工業国であったことで、日本は競合を避けるために生糸生産に本格参入できずに居た。
その分、イギリスの極東工場として重工業の発展は著しく、イギリス東洋艦隊の艦船の整備や修理を請け負う事も多くなっていく。
その後、半ば無主地であった台湾へのロシアの進出を恐れたイギリスは日本による統治を容認し、日本は琉球と台湾を国土に加えることになる。
小栗はビスマルクに学んだ政治手腕によってこの頃まで首相の座にあり、力強く日本を牽引し、重工業化を推し進めた。
その知恵袋であった徳川斉昭はすでに亡かったが、その薫陶がここまで彼を導いたと言えるだろう。1888年、小栗は首相を辞すが、その時の演説はビスマルクの鉄血演説と並び評されることとなる。
そんな日本の成功は、小栗が唯一、ドイツを見習わなかったイギリスとの対立だっただろう。その結果、第一次世界大戦ではドイツと相対する事となり、ドイツの仕掛けたアメリカ連合国大使館電報事件によって合衆国が南部へと宣戦布告し、南部連合は敗北、盟友を失う事となったが、南部の対日感情は変わらず、支那大陸進出を積極的に進めて日本と対立を深めていく合衆国のブレーキ役となった。
合衆国にルーズベルト政権が誕生すると、盛んに日本を批判する姿勢を見せる大統領を常に南部出身議員が牽制し、1940年の大統領選挙では、対欧州参戦と対日戦争を分離して語るルーズベルトを批判する勢力を抑えていくこととなる。
1942年には上海において砲艦パナイ号が爆沈し、日本による工作行為だとして対日戦争を始めたルーズベルト政権に対し、アメリカ南部の人々が各種抵抗を行った影響で早期の講和を結ぶことに成功した。
ただ、こうした南部の日本への姿勢は以後もアメリカ国内での対立を生み、公民権運動や昨今の人種差別問題にも影を落としているのは事実である。
これにて完結。




