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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
三賢人の日本史
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三賢人の日本史・7

 さて、三人目の賢人の話を始めるとしよう。


 小栗忠順は1853年、ペリーが浦賀に来航した時、浦賀においてその威容を見て日本の将来を憂いたと言われている。

 多くの日本人にとっては幕府側も蒸気船を繰り出しほぼ対等な関係であったと認識している中では異例の事だった。


 その後の経緯は不明だが、この頃から英語を学び、1858年に遣欧米使節の派遣に際して目付として随行する事となった。

 クリミア戦争以来関係を深めていたイギリスの先導の元、マラッカ、インドを経てケープタウンを経由して欧州へと至る長期の航海によって英国へと至り、そこで見た英国の産業規模に圧倒される事となった。


 そこから通商条約を結んだフランス、オランダ、ロシアを巡り、ロシアではプロイセンの駐露大使だったビスマルクとも接触したと言われている。


 こうして欧州各国を巡り、日本の発展が如何に遅れているかを痛感する事となった。

 1860年、長きにわたった欧州巡りから大西洋を渡ってアメリカへと向かった一行は、その国の巨大さを身をもって知る事となった。

 ただ、先に欧州各国を巡っていたことから余裕が生まれ、応対に当たったアメリカ人たちからは欧州からやって来た黄色人というオカシな呼ばれ方をすることとなる。

 各地を見て回ったが技術的な面では欧州に見劣りし、すでに南北対立が顕在化していた事もあってその政情の不安定さは欧州中部に勝るとも劣らないとの認識を持つことになった。


 一行がサンフランシスコへ到着するまでは多少の居心地の悪さや慣れない食事に対するストレスはあったが快適な旅路であった。

 しかし、サンフランシスコに待機していた出迎えの船からもたらされた報は衝撃的なものとなる。

 使節が出発する直前に大老の任に就いた井伊直弼が暗殺されたというではないか。


 更に使節団が欧米を巡る間に井伊は後に安政の政変と呼ばれる粛清や政争を繰り返し、結果として多くの幕閣や大名が処断される事態となっていた。


 とくに大きな問題は朝廷が修好条約に否定的で、井伊が強引に勅許発出を迫った事から攘夷浪士に江戸城外で暗殺された事だった。


 こうした報に触れて大きな不安を抱いての航海であったが、案内役を務めるアメリカ海軍は呑気なもので、小栗たちが乗組んだ翔陽丸に案内人として配された口の軽い士官はペラペラと日本が如何に太平洋航路において重要か、アメリカの対清政策に必要かを語っている。もちろん、敢えて通訳には約させなかった部分もあったが、すでに英語を解する小栗にはその意図、意味が伝わる事となった。


 開国論者であった小栗には少々衝撃的な内容であり、後にこの士官の話を聞いて攘夷論に転向も考えたというほどだった。

 そんな小栗が士官に英語で話かけると、少し嫌な顔をされたが、その理由を深く考えることはなかった。

 実は小栗の話す英語は時折怪しい発音が飛び出すものの、明らかにイギリス英語であり、日本がアメリカよりもイギリスと親密な関係にある事が、人種問題の上にさらなる嫌悪感を上積みしていたのだが、当の小栗が気付ける話ではなかった。

 ペラペラ喋る口の軽い士官から、津軽海峡の重要性を聞かされた頃には日本が見えており、もはや意識は江戸へと向けられていた。


 攘夷論優位と見られた横浜に帰着した小栗が目にしたのは、まさに懸念していた事そのままだった。

 とはいえ、条約締結を反故にする様な動きはなく、使節団は江戸へと入る事が出来ている。


 ただ、その扱いは腫れ物に触るような状態であり、混乱の片方の当事者である徳川斉昭への談判に及ぶ事にした。

 もともと小栗は幼少期は悪童と呼ばれた事もある人物であり、こうした行動力や決断力を持つ人物であった。


 斬り捨てられてる事も覚悟して向かったのだが、意外なことに快く迎い入れられ、斉明との面談が叶った。

 小栗は必死に欧米列強の力や技術の高さを訴え、現状で攘夷論は日本に仇なす行為であると説いたとされる。


 斉明は小栗の話を静かに聞き、話が終わるやいなや口を開く。


「やはり、懸念は現実であった。我が攘夷とは大攘夷なり」


 との有名な言葉を発した場面は多くの小説やドラマで描かれる事になる。

 斉明は攘夷論者である。それは今に至るも認識に相違はない。が、一般の攘夷論者が目先の異人討伐や異国排除を目指したのとは違い、富国強兵を旨として日本を列強に対抗出来る強国に押し上げる事で諸外国からの干渉を跳ね除ける考えを持って実践していたのだった。

 口の軽いアメリカ士官の話は斉明の持論を確固とするものであり、小栗に対して樺太や蝦夷が如何に国防上の重要拠点かを説くほどだった。

 こうして二人は意志を共有し、幕政改革へと踏み出す決意を固める事になる。


 二人が会談している中で小栗はある違和感を抱き斉昭に尋ねている。

 それは安政の政変で多数の開国派幕閣がなぜ左遷や処罰を受けたかである。

 斉昭の返答は明解であり、井伊直弼は政治的立場から開国論を論じてはいたが、当人の考えは開国論にはなく、何なら樺太や蝦夷を失っても、それでロシアが日本への興味を失うなら良しと考える節があったという。


 井伊直弼と斉昭の対立は表向きには井伊が開国派、斉昭が攘夷派であったが、樺太防衛に重きを置いた斉昭に批判的な井伊の態度は露骨で、まったく開国派らしくなかったらしい。

 それで機会を見て問い質した結果が先の内容であった。


 小栗もそれには絶句している。


 余談ではあるが、斉昭は小栗との会談から程なく倒れている。

 狭心症であったとされ、この時も気付け薬として携帯していた雷水によって一命をとりとめ、以後小栗を支える事になるのだが、雷水ことニトログリセリンは欧州において1846年にはじめて合成された物質であった。

 しかし、日本においては久米通賢が1830年代から雷管のさらなる改良の為に偶然生み出し、何を思ったのか1839年に蘭方医に心臓病薬になると持ち込んでいた。

 1860年頃にはある程度の広まりを見せ、斉昭も1855年頃から携帯する様になっていたらしいが、欧州医学ではまるで一般化していなかったニトログリセリンの狭心症への効果を、なぜ久米通賢が理解していたのかは分かっていない。

 一説には平賀源内がすでに研究しており、その事を何らかの書物に記していたとも言われ、通賢もその様に答えたとされる。ただ、その様な文献が現存しないため、はっきりした事は分かっていない。

 これがまた、久米通賢をも転生者扱いする原因なのだが、本当に平賀源内は死後も様々な影響を多くの人に与えている。

 

 

 

 

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