11 とある巨人と生存戦略
朝のスパーリングを終わらせて軽く水浴びすると、俺は朝食にした。
この城では俺が要求したら大抵の物は出てくる。というか、要求しなくても先回りして出てくる。
これは住み着いてしまった怪物に対する扱いなのか? 重要な客人に対する扱いなのか?
まぁ両方だろうな。
腕っぷしが自慢の連中を従えるのは体力・戦闘能力を誇示すればすむが、それ以外の連中は少し骨が折れる。
まずここの真の主人ブラームス子爵にお目通りを願った。
すると『それだけはご勘弁を』と平謝りされた。面会謝絶の人間に無理に会うわけにも行かない。俺も引き下がるしか無かった。尋ねてみたところ、アンロスト伯爵も会えずにいるらしい。
あの反応は何なのだろう?
単純に主人が怪物に喰われるかも知れないと恐れたのか? それとも子爵さんはすでに死んでいて後継者を固めるまで生きていると装っているのか?
どちらもあり得る。
それ以外のファンタジー的な理由があるかも知れないが、俺が考えこんでもどうにもならないな。
仕方ないのでまずは、予算やら装備やら軍関係の帳簿を見せてもらう事にした。
こちらに文字があるかどうかも不安だったが、幸にして結目がたくさんついた紐が出てきたりはしなかった。木簡でも羊皮紙でもなく植物紙がすでに作られているようだ。
ふと思ったが、未来人が現代にやって来て『統計データを見せてくれ』と言ったら大量の書類が出てきてうんざりするんだろうな。コンピュータに命じれば分かりやすいデータがすぐに出てくるのに慣れきっているとかで。
その仮想の未来人よろしく俺はうんざりしながら帳簿をめくった。
文字など読めなくともわかる。書類の書式がまるで統一されていない。書く人間によるのか部署によるのか、それぞれ勝手な書き方をしているようだ。
複式簿記でも伝えてみるか?
でもアレは拝金主義につながると言うか、すべての価値を金銭に換算する拝金主義の根源みたいな物だからな。
便利だからと気軽に伝えるのもまずいか。
付けてもらった若いのに書類を読み上げさせて文字を覚えにかかる。
多少の例外はあるが基本的には表音文字のようだ。漢字カナまじりの宣教師たちに『悪魔の文字』と恐れられた日本語方式でないのはありがたい。
ただし、数字も漢数字のような表音形式。こうしてみるとアラビア数字の素晴らしさがよくわかる。漢数字を使って複雑な計算をするなんてごめん被る。日本古来の物だけで計算するならば、最低限ソロバンが必要だよな。
文字を覚えるついでに幾つかの項目をわかりやすく集計してやる。
それを覗き込んだ文官たちは目を丸くして、そして俺の前に新しい書類を積み上げやがった。
お前たち! 遠慮って物がなさすぎるぞ!
社長業で書類仕事も鍛えられてはいるが、別にそれが好きなわけじゃない。
食った飯の分ぐらいは働くけどよ。
俺でなくとも普通に教育を受けた日本人ならばここの文官3人分ぐらいの計算能力はある。
元からあった計算間違いをいくつか指摘する。
そうこうしている間に読み書きが出来るようになってきた。
すると書類がまた増える。
ヲイヲイ、今度は決済用の書類じゃないか。数字の集計だけならばともかく、承認のハンコを押すのは俺の仕事じゃないぞ。こういう物は小ブラームス君の所へ持っていきなさい。
いや、俺が持って行ってやるべきなのか?
「ジャイアント殿」
そう考えた時、折りよく声がかけられた。
顔を上げると持って行こうと思った当人がすぐ横に立っていた。
書類の束を彼の前にドスンと移動させる。
「よく来た」
「なんですか、これは?」
「この領地の責任者が目を通さなければならない書類一式だ」
「こういう物は家臣たちが処理する物ではないのですか?」
初歩の初歩から教育が必要なようだ。
「俺が見る所、これらは責任者が見て、承認するなり却下するなりしなければならない」
「父はそういう物にはほとんど触れていませんでした」
「親父さんがどうやっていたかは知らない。しかし、すべての責任を持つ者が、自分の部下がやっている事を知らないでは済まない。……他人にやらせる方法もあることはある。信頼できる部下に処理を任せて自分はその部下の管理監督をする、ってな。だが、それにしたって任せる仕事について良く知っておかないと、部下にごまかしをされたら対応できなくなる」
「ごまかされるんですか? 悪い人間が部下にいると?」
「間違えるな、悪人が悪意を持って悪いことをするばかりじゃない。たとえば、どうしてもお金が必要な時に目の前に大金があってそれを自分の懐に入れても誰にもわからない。そんな状況で自制心を働かせられる人間は多くない」
「はぁ」
「ごまかしなんて、誘惑にかられるか、失敗を糊塗するためにやるのが大半だ。悪人ではなく普通の人間がそれをやるんだ。悪事に誘われるような状況を作らない、失敗をしたらそれを報告しやすくするのがいい上役ってものだ」
「そうなんですか」
実感としては分かっていないようだな。
ま、若いうちはそんな物だろう。
若者はおぼつかない手つきで書類をめくる。
「実は、私は読み書きがあまり得意ではなくて」
ちょっと呆れた。
「どのぐらい?」
「自分の名前は完全に書けます。この紙もゆっくりとならだいたい読めます」
「それだけ読めれば十分だ。あとは慣れろ。練習あるのみだ。俺も今、読み方を憶えながら読んでいるところだ」
「そうします」
小ブラームスは椅子に座って、文官たちに質問を投げかけながら書類を読み始めた。
俺は少々怒りを覚える。
この小ブラームスではない会えないほうのブラームス子爵への怒りだ。息子にろくな教育もせずに放っておくとは何事だ? 後継者の育成を怠るなど、組織のトップとしてあり得ない。自分が急に死んでも慌てなくてもよい体制を作っておくべきだ。
俺みたいに。
ところで、さっきから視界の隅にリスティーヌのお嬢さんがチラチラしているんだが、アレはなんだ?
小ブラームス君に気でもあるのか、それとも俺に恨み言か?
こっちから声をかけようかと思ったが、そうすると逃げてしまいそうな気配もある。
放置でいいか。
しばらくの間、文官仕事の時間が続く。
勉強8割仕事2割ぐらいの割合だけどな。
「そういえば、小ブラームス君。俺に何か用があってここへ来たのではないのか?」
「それです!」
それって、何だよ。
若者の剣幕に俺は少し引いた。
「私は最近、小ブラームスとしか呼ばれていません」
「ああ、そうか。本名を聞いていなかったか。すまなかった。謝罪する」
「いいえ。ジャイアント殿だけではありません。私はここ数年、名前を呼ばれた事がないのです。もう幼名で呼ばれる歳でもあるまい、と。それで小ブラームス、小ブラームスと。小ブラームスっていうのは立場であって名前ではないですよね」
「そう、だな」
しかし、それが俺と何の関係がある?
いや、気の毒だとは思うし、力になってやりたいとも思うが。
「ですから、私は新しい名を名乗りたいのです!」
「……良いんじゃないか?」
気分を変えたい時にリングネームを変更するのはよくある事だ。
名前で無くともマスクをかぶったり脱いだりして人気が爆発する奴も居るからな。
「つきましてはジャイアント殿にその名前を考えていただきたくお願い申し上げます」
「……」
「ダメですか?」
そんな捨てられた仔犬のような目で見上げられても困る。
「俺はこちらの習慣には疎いが、名前をもらうってそんなに簡単な事ではないだろう。普通は上司とか恩師とか、立場が上の人間からもらう物では無いのか?」
昔の大名とか。主君から名前の一文字を貰ったりするのは大変な名誉だったらしい。
「だからこそジャイアント殿から頂きたいと考えています。私はあの時、家臣からも見捨てられアンロスト伯爵からも見限られ、放り出されてどこぞで野垂れ死ぬのを待つばかりでした。いいえ、あの伯爵様の事ですから私に確実にとどめを刺していたでしょう」
あの男ならばそこまでやる、かな?
人望はないが血筋的にはブラームス子爵領を継ぐのにふさわしい若者。確かに生かしておいたら厄介事の気配しかない。本人を担ぎ出せなくともその子供を、という手もある。
「ジャイアント殿がとりなしてくれなければ、私の命はあの時に失われていました。ならばジャイアント殿を目上として敬ってもおかしな事ではありません」
「そう、か?」
「それに、ジャイアント殿にとってもこれは悪い話ではないはずです。ただの流れの人間から、私の名づけ親という立場になれるのですから」
あ、納得した。
彼の説明は主客が転倒している。
俺の名づけ子という立場を得て、俺をこの領地に繋ぎ止める事が彼の目的だ。
剛力無双と一目でわかる巨躯をもち、事務能力も兼ね備えている。そんな人材は確かに欲しいよな。
確実に自分の物と言える物が自分自身しかないからこその捨て身の策。彼が女性だったら身体まで差し出してきたのではないだろうか?
俺には男色の気はないと宣言しておいた方が良いだろうか?
それはともかく、この策に乗るかどうかが問題だ。
本音を告げずに仕掛けられたと思えば腹も立つが、この程度の策略も使えないようでは彼もこの後やっていけないだろうな。
いい家のドラ息子から脱却しつつあるのならば、むしろ好ましい。
「名前をつけてやっても良いが、一つだけ条件がある」
「何でしょう?」
「朝のランニングには君も参加するように。その後の鍛錬まで一緒にやれとは言わないが、最低限の身体はつくっておいた方がいい」
彼は梅干しでも頬張ったような顔をした。
しかし、これは譲れない。いい若い者が身体を鈍らせるなど見るに堪えない。
「わかりました。やります」
「よく言った。では行こう」
「は?」
「ランニングだよ、やると言っただろう」
「明日の朝からでは?」
「今日の分がまだ終わっていない。トレーニングは毎日、欠かさずやるのが大切だ。行くぞ。一周終わったら昼飯にちょうどいい」
往生際の悪い若者をせきたて、ランニングに向かう。
別に書類仕事に飽きたからではないぞ。
やっぱり身体が出来ていない。彼は街の周りを一周どころか、半分も行かないうちにヘロヘロになった。
「止まるな。後ろから大鬼が追いかけて来ると思え」
「……(鬼より怖い巨人が追いかけて来る)」
これも神様からのボーナスか、彼の声にならない叫びが俺には聞こえた。ま、顔を見ただけでもだいたい分かるが。
脅しつけて走らせて、最後は這うような速度だったが、なんとか一周回らせた。
バッタリと倒れた若者に俺は言った。
「よし、今日からはこれが日課だ。よく走り通した。約束どおり名前をやろう」
俺はちょっと考えた。こいつは俺の養子みたいな物だ。
俺の長男とか次男と言えば……
「お前はこれからカクリュウと名乗れ。それがお前の名前だ」
カクリュウとなった若者は倒れたままいい笑顔を浮かべた。
何かをやり遂げた男の顔だった。




