51回目 袂を分かつ
歩き始めて30分が経った頃。小さな泉の脇に、切り開かれた空間が見えてきた。
半径50メートルほどの円形に整地が為されて、中心部には幾つかの墓石が置いてある場所だ。
「ここか」
「王家の私有地です。滅多なことでは使われませんが……おっと、先方も来たようです」
墓の近くまで来たクレインがピーターの視線の先を見ると、南の方角から20名ほどの一団が歩いて来るのが見えた。
先頭に立っているのは、クレインの部下としてアースガルド領に派遣されていた文官の男だ。
「ご無沙汰しております。アースガルド子爵」
代表して挨拶をした文官は小貴族連合に引導を渡し、宰相への紹介状を書いた男だが、彼以外の面々も半数ほどはクレインの部下だった。
そう、彼らの過去形だ。彼らは王命で派遣されていたが、第一王子の周囲にいた人間だからだ。
クレインからすると彼らの忠義は、今も王子に向いているように見えた。
そして後列から、クレインと最も関わり深かった女性が進み出てくる。
「お久しぶりです、閣下」
「……生きていたんだな。ブリュンヒルデ」
「ええ、生き長らえてしまいました」
残念そうに言う彼女は、クレインの記憶と何ら変わらず優し気な微笑みを浮かべている。
彼女の死など想像もできなかったクレインだが、実際に生きて目の前に現れると、驚きの気持ちと納得の気持ちが入り交じり、複雑な顔をした。
「殿下の遺臣たちを集めたのは、君か」
「いえ、私も誘いを受けてのことです」
そしてこの場を設けたのも、会談をするのも彼女ではない。
代表格である文官の男が、先頭に立って話を切り出した。
「子爵、近頃の動向は我々も聞き及んでおります」
「ラグナ侯爵家と手を組んだことを、か?」
聞かずとも分かることであり、文官は気まずそうな顔をした。しかし彼はクレインに向き直ると、縋るような目を向けて言う。
「貴方は殿下と共に北侯を退けて、王国を守ると誓ったのでは、ないのですか?」
顔を歪める彼がどういった意図で尋ねているのか。それはクレインには分からないが、立場は明確にしておく必要があった。
だからクレインは目を逸らさずに、確認の言葉に訂正を入れる。
「違うな。殿下と交わした言葉は、そうじゃない」
「では、何と」
快いわけがないことだけは理解しつつ、クレインは返答した。
「ラグナ侯爵家が拡張路線を続けるなら、アースガルド子爵領も危ないと思っていたんだ」
「……それで?」
「だから。殿下は殿下の目的のため、俺は領地のために共闘関係を結んだ」
ラグナ侯爵家を放っておけばアースガルド領が危険に晒される。だからこそクレインは、交渉の目途が立った第一王子と手を組むことにした。
つまり利益の一致から結ばれた共闘関係であり、それが全てなのだ。少なくとも国のため、大志のためという志の話は一切語られていない。
「そうだろう、ブリュンヒルデ」
「……はい、閣下。その通りです」
約定を交わした場には彼女も同席している。
クレインはあくまで領地を守りたいがために協力すると言い、第一王子がそれを受け入れたからこその関係だった。
そこに嘘は無い。実際に横で見ていたブリュンヒルデもそう言っているが、これは理屈の問題ではなかった。
「それでは殿下が浮かばれません! 権威を利用するだけ利用して、用が済めば捨てるというのですか!」
「そうだ! そんなことが許せるか!」
クレインの行動は不義理でしかなく、遺臣の多くからすると、これは感情の問題となっていた。
それはクレインも承知しているが、しかし当時と今では全く状況が違う。これまでの経緯を振り返りながら、クレインは努めて冷静に返した。
「後ろ盾が無くなれば、別な勢力の傘下に入る。それが領地を持つ貴族の正しい在り方のはずだ」
「だからと言って、何故、北侯を選ぶのですか!」
「そうだ。同盟を組んだのが東伯や、東侯であれば、我々とて……」
東伯からは今年の初めに、一方的な戦争を受けている。それは奇襲戦争であり、領地が滅びかねない規模であり、戦後の講和も未だに行われていない。
そして彼らは王宮から裁かれておらず、今も再戦の用意をしているのだ。
もしもヴァナルガンド伯爵家と手を組んでいたら。などと考えるのは、クレインからすると「そうなったら嬉しい」という願望でしかなかった。
「殿下の旗下にいた頃から既に、東伯と戦う支度は始めていたんだ。それはあり得ない仮定だよ」
アースガルド家が裏切って北上すれば、北侯は滅びる。その可能性は非常に高く、彼らが取れる現実的な仇討ちの方法もそれしかない。
彼らにとっての理想はクレインが北候を裏切り、東側との関係を修復して、共に北を攻めることだ。
他に道が無いのだから、彼らも容易には退かなかった。
「私は東に縁故がある。仲裁してやろうではないか!」
「そうですよ子爵、今からでも遅くはありません」
騎士の一人がそう言えば、周りは揃って追従した。しかしその提案もクレインの視点では、状況に照らして多大な無理がある。
何せ東側の勢力は、もう兵力を集める段階に入っているのだ。早ければ数週か、遅くとも数ヵ月以内には挙兵すると見込まれていた。
「もう手遅れだよ。遅すぎたんだ」
そして王都からヴァナルガンド伯爵領の領都までは、どれほど急いでも2週間はかかるのだ。
仲裁の使者が間に合うことを祈り、東伯、東候やその他の勢力が話し合いに応じることを祈り、妥協点を探って同盟を締結するには、今からでは遅い。
大戦も間近という段階で、そこまで悠長な交渉が間に合うはずもなかった。
「今からでは何一つ間に合わないし、裏切った瞬間に北候が兵を向けてくる」
王子が死んでから何ヵ月が経ったと思っているのか。その間に、どれだけ情勢が変化したと思っているのか。
同盟を結んだ直後ならいざ知らず、既に共闘の前提で決戦の準備に入っている。
クレインが深く検討するまでもなく、この誘いには領地の益や希望、平和への道筋を見出せなかった。
そのため、ここに至り離反の提案を受けても、クレインは絶対に許諾できなかった。
「やってみなければ分からないだろう!」
「賭けてみましょうよ。貴方とて不忠者の烙印を押されたくはないでしょう?」
好き放題に野次を飛ばしているのは、第一王子派閥の人間の中で、王都にいた者たちだ。
現実的には誰が見ても不可能だろうと、彼らにはもう、アースガルド子爵を引き込む以外の道が無いのだから、どんな無理筋だろうと押すに決まっている。
アースガルド領に出向していた者たちは、ただ気まずそうな顔をして俯く前で、クレインは更に拒絶の言葉を重ねていった。
「まず裏切ったとしたら、北侯は即座にアースガルド領に兵を送るだろう。防げるはずがない」
既存の同盟を前触れもなく破棄するのだから、ヨトゥン伯爵家も混乱して、援軍を送るどころではなくなる。
そもそも第一王子派の残党が提案したことに、東伯と東候が乗るとも、クレインには思えない。
状況からすれば、裏切ることなど土台あり得ない話だった。
「北侯と表立って敵対したことはないが、東伯は実際に奇襲を仕掛けてきたんだ。これで手を切るなどあり得ないし、その方が不義理のはずだ」
可能、不可能の話を抜きにしてもあり得ない。クレインの心情としても、既に東と手を組もうとなどとは思っていないからだ。
確かに、クレインとしてもラグナ侯爵家に思うところはある。
領地を滅ぼされたのだから当たり前だ。
――しかし、一度だけだった。
ラグナ侯爵軍がアースガルド領を滅ぼし、領民を殺害したのは最初の人生のみ。それは50回も前の人生で経験したことであり、恨みの記憶もひどく朧気だ。
「先に友誼を結んだのは、殿下の方でしょうに」
「大した被害も出ていないのだ。先の戦のことは水に流せ、子爵!」
そして遺臣たちとクレインの認識は、絶望的なほどすれ違っている。
目に見える分には、一度紛争を仕掛けて撃退された。ただそれだけのことだからだ。少なくとも今回の人生においては、当事者以外からすると、わずか1日で終結した小競り合いでしかない。
しかしクレインの記憶では、ヴァナルガンド伯爵軍が数十回に亘りアースガルド領を破壊し、民を虐殺している。
街が燃え、逃げ惑う人々が殺されていく光景を何十回と再現されれば――そこまでいけば、割り切ることなどできはしなかった。
しかしクレインにとっては既に、ヴァナルガンド伯爵こそが怨敵だ。
彼の中ではいつしか北侯よりも、東伯の方が遥かに許しがたい存在になっていた。
「……戦いの恨みを水に流せと言うなら、殿下の恨みを水に流した方が早い」
「な、なんだと!?」
「貴様! 撤回しろ!」
状況が変わったから手を切ったこと。王子の死後に起こった変化とはいえ、それがクレインに罪悪感を与えていたことは間違いない。
だからこそ彼は今日、ここに来たのだ。
「殿下がご存命なら、俺も北候と同盟を結ぼうなどとは思わなかっただろうな」
憤慨した様子の遺臣たちから目線を切り、現実を確かめるように。クレインは目前の墓石を撫でて呟く。
「だが、君たちが忠義を尽そうとしている人は――この墓石の下で、眠っている」
性も家名も刻まれていない墓石。ただ「アレス」とだけ刻まれた墓石に祈りを捧げて、クレインは上を向く。
「もういないんだ。未来のことだけを、考えていかなきゃいけないんだよ」
次の戦いは勝てる。その算段がついた。恐らく王子を助けに戻ることはない。
そして遺臣たちは仇討ちに参加させようとするだけで、死因や謀略のことなど語ろうともしてない。
まずもって情勢が見えおらず、この有様では有益な情報など持っているはずもなかった。
ならばこれで終わりだ。王子の死にどんな遺恨や陰謀があろうとも関係ない。全てを過去にして、このまま封印するのが最善だ。
心中で決断したクレインは祈りを止めて、過去を捨て前に進むという決断に、心から納得しようとしていた。
「だからこそです。殿下を弔うためには、北侯の首を取らねばならない!」
「……弔い合戦。ピーターが言うところの、義というやつか」
それが生前の、彼の望みだった。
悲願を達成して侯爵の首を墓前に添えること。それは今や、残された者の願いであり、崩れかけた心の寄る辺でもあった。
もちろんそれが全員の総意ではなく、政治的な理由で動いている者も多い。むしろ深く悲しんでいる方が少数派かもしれないと思いながら、クレインはごく小さく呟いた。
「なるほど、ピーターが亡霊と言うわけだ」
各々の温度感までは推し量れないが、遺臣の多くは死んだ王子の幻影を追いかけて、悲願を果たすためならば、どんな犠牲も厭わない者たちと化している。
派閥の全員が共通の思惑で動いているわけでもなし。こうなった以上、彼らと和解する道はどこにもなかった。
「お前たちは憂国の士で忠義の遺臣だよ。そこまで真っ直ぐな生き様ができることは尊敬するし、羨ましくもある」
代表者の文官や自分の秘書だった女性には、家を捨ててでも、名誉を捨ててでも、忠義のために散る覚悟があるのだろう。
或いは忠義のために命を落とすこと。それこそが名誉であり、実益など顧みないのかもしれない。
クレインはそう察しつつも、彼らが語る忠義という題目を再度、真正面から否定した。
「俺には失いたくないものがある。仇を討つという自己満足のために――守るべきものを全て危険に晒すような博打は、打てない」
故郷には愛すべき人がいて、自分を慕い集まってきた家臣たちもいる。
守るべき領地には、今日も平穏に暮らしている人々が大勢いる。
それらはラグナ侯爵家との同盟関係があって、初めて救うことができるのだ。現実を勘案すれば、クレインが北侯と敵対の道を選ぶことはあり得なかった。
「子爵、お考え直しください!」
「もう一度だけ、言う」
クレインには元々、王子との間にそこまでの親交は無い。むしろ何度も安易に暗殺されて、怒りや恨みの感情が勝るほどなのだから、比べるべくもなかった。
片や現実を知っていても、主君が目指した理想を実現したい者たち。
片や現実を見据えて、状況に即した生存戦略を立てる者。
その差異は決して埋まることなく、両者の主張も最後まで交わることはなかった。
「俺が守りたいものは。殿下への義理立てと引き換えにはできない」
「それが、貴方の答えですか」
彼らの助力でアースガルド領の発展は早まった。一時期とは言え、共に働いた仲間でもある。
クレインとしても、できることなら関係を修復したいとは思っていた。
だが彼らは領地への帰参の誘いを蹴り――王子への忠義を果たすために――北候を殺すためだけに生きる、亡者へとなり下がったのだ。
この段に至っては、クレインが掛ける言葉は別れの台詞しかなかった。
「……そうだ。俺は平穏な未来を掴み取る。それだけを考えて、進むことにするよ」
クレインは仇討ちに賛同せず、ラグナ侯爵家との同盟を維持すると決めた。
それが長らく悩んだ末に出した、彼の迷いなき答えだった。
「これが平和な未来を勝ち取るための、唯一の道だ」
彼がそう言えば、遺臣たちもいよいよもって交渉を諦めた。
しかし穏便に終わるはずがなく、彼らは口々に、クレインの横に立つ男に向けて檄を飛ばした。
「ピーター殿。アースガルド子爵は我らと袂を分かった」
「かくなる上は、子爵から始末するしかないぞ!」
第一王子勢力の残党が、北候の首を狙っている。同盟を維持すると宣言したクレインがその情報を持ち帰れば、残党狩りが本格化するだろう。
「なるほど。事前にピーターを抱き込んでおいたのか」
話を付けさせて、味方に戻るつもりがなければ、この場で殺す気だったのだろう。
そう理解したクレインの横で、件の男は緩やかに動いた。
「やはり、こうなりましたか。――茶番ですな」
普段と何も変わらぬ口調のまま、ピーターはあっさりと片刃剣の鯉口を切る。




