49回目 狂気の沙汰と燃えたもの
焼失した砦の前で一日ほど野営した東伯軍だが、山火事の勢いが弱くなってきたことで、ようやく進軍を再開する目途が立った。
しかしそこへ敗走した補給部隊長が転がり込み、後方急襲の報告で、軍議の席は騒然とした。
「後方が攻撃を受けている?」
「補給部隊は全滅! 敵軍はそのまま、男爵領へ向かいました!」
「ふむ……なるほどな」
農業政策、経済政策、軍事政策。アースガルド家の動きは商人たちから伝え聞いていたが、その全てが見事と言う他はなかった。
アースガルド子爵は、若いながらに一廉の人物だ。ヴァナルガンド伯爵からも当然、油断ならない相手という評価が下されていた。
しかし警戒の甲斐なく、結果としては見事に裏をかかれている。
「まさか逆侵攻とはな。思った以上にやり手のようだ」
「笑いごとではございませんぞ」
「然り」
文官服を着た軍師の老人が呆れたように言えば、黙って伯爵の横に控え、置物のように鎮座していた寡黙な大男も、目を閉じたまま同意した。
「敵は中々の人物だ。相手が強敵になるほど、燃えるものだろう?」
「……その気概のとばっちりを受ける、子爵が不憫でなりませんが」
「まあ、そう言うな」
伯爵は40歳を目前にした精悍な男だが、生涯を戦いの中で生きている。どんな戦いにも危な気なく勝利してきた男は、久々にやり込められたことを、むしろ嬉しく思っていた。
「で、他の報告はどうか?」
ヴァナルガンド伯爵が聞くと、折よく武官の一人が天幕に入ってきた。
補給部隊長から数十分遅れで到着した、男爵家からの連絡要員だ。
「報告しろ」
「我が軍は……敗北致しました。敵は更に、東へと向かったようです」
「大胆なことだな」
この段階で既に、アースガルド家が出した別動隊は3000ほどだと報告は上がっている。
南伯軍が参戦すると聞いて、男爵領からは多めに兵を出させていた。
無理を言って、騎士爵領からもほぼ全軍を出させている。
だから襲われてしまえば、確かに騎士爵領も陥落するだろう。しかし東伯軍本隊との挟み撃ちに遭えば――奇襲の兵は、当然の如く全滅する。
「指揮官はよほどの欲張りらしいな」
男爵領の襲撃だけで十分過ぎる戦果だというのにと、呆れるやら賞賛するやら複雑な表情をした伯爵の横で、老齢の軍師はクレインの採った戦法の方に呆れていた。
「4万を相手に、この人数を割るとは……なんと無謀な」
彼らも子爵家の兵数は把握しており、数は1万3000で確実だ。報告にあった奇襲部隊を含めれば、ちょうど計算が合う。
しかしこの数の別動隊を出すなど、常識で考えればあり得ないことだった。
「ただの無謀と笑うか?」
「いえ。ですがこの状況で兵を割ることができるのは、軍略の天才か狂人だけです」
「そうか。で、どちらと見る?」
「狂人ですな」
軍師は、クレインは軍事の天才などではなく、気狂いの類だと断言した。
だがその狂人の策にまんまと嵌められたのだから、伯爵は笑いが抑えきれない。
「兵を割った結果、大当たりではないか」
「結果論です。失敗する目の方が遥かに大きい」
「まあ、な」
鼻を鳴らす老齢の軍師だが、それでも一応この中で彼だけは、逆撃を警戒していたのだ。
森に抜け道があるかもしれないので、大森林側には数キロ置きに監視を付けていたし、子爵家の支配圏を北上して、北の道を大回りしてくる可能性も考慮には入れていた。
だから街道を封鎖して備えてもいたが――しかし敵は、予想外の方向からやってきた。
そこは北の街道よりも遥かに子爵家へ近い位置で、事前の調査でも「ただの険しい山」としか見られていなかった地点だ。
しかしどうやら、そこに抜け道があったらしいと気づいたのは、今さらになってからだった。
「これを見越して、あのクズどもを暴発させたとすれば、やはり中々の手腕だ」
「そうですな、先見性はございます」
アースガルド領から東に続く道は一本だけだ。しかしもう少し北に進めば、それこそ北侯、ラグナ侯爵家の支配圏にならばいくらかはある。
だが、アースガルド領からすぐに兵が出せて、かつ動きが捕捉されない道と言えば。切り開いたはいいがすぐに使われなくなった、この山道しか無かった。
「ううむ。まさか、我らが北の街道を塞ぐことまで読まれていたのでしょうか」
「ここまで巧妙に仕掛けてきたのだ、あり得ない話ではないな」
その着眼点はいいとして、東伯にも軍師にも。他の将たちにも分からないことが、一つあった。
「しかし奴らは、いつ出発した?」
「分かりません。間者も大慌てのようです」
アースガルド領北東の山道は、今やただの獣道だ。道の原型があるとは言え、悪路には違いない。
真冬にそんなところを通行すれば、行軍速度は大幅に落ちるだろう。
伯爵家がアースガルド領へ攻めてきてからすぐに出発しても、反撃が間に合うわけがなかった。
「進軍速度を読み切り――いや、読み切るだけでは遅い。我らが出立した日時を正確に把握していなければできない芸当だ」
予め兵を北部に送り、出兵のタイミングを完全に読み切り、ヴァナルガンド伯爵軍が男爵領を出発した直後には出撃していなければ、計算が合わないのだ。
ペース配分を考えず、最大限に飛ばしたとしてそのスケジュールとなる。だと言うのに反撃に成功したどころか、登山の疲れを見せずに戦っているのだから意味が分からない。
しかもこの指示を出したのがクレインならば、兵を北部に送る前から、敵軍の出兵日時を把握している必要があった。
騎馬隊だけで強行軍した最速侵攻を、どのようにして読み切ったのか。
そんなもの、彼らには分からなかった。
「分からないことだらけ、か」
「ええ。皆目、見当もつきません」
万一に備えてあらゆる可能性を模索した軍師も、この作戦には唸る。
軍勢を山に常駐させていれば、間者が情報を持ち帰ってくるだろう。それでも軍勢が攻めて寄せる前に出立しなければ、到底間に合わない。
ここしかない絶好のタイミングで山越えを実行したのだから、神懸かり的な作戦ですらあった。
「何代か前の、他家が失策した成果まで利用するとはな。子爵はいい役者のようだ」
「無価値な物に利用価値を持たせる、まあ、合理的です」
すぐ南にアースガルド家という交通の要所があり、しかも到着する先はほぼ同じという山道はすぐに使われなくなったのだ。
今では騎士爵領に住んでいた者でも、存在を知る者は僅かだろう。
伯爵軍にも当然把握している者はおらず、男爵領から援軍に来ていたベテラン兵が、朧げな記憶を辿りようやく思い出せたくらいだ。
彼らが立てる作戦の中から、そこへの備えはすっぽりと抜け落ちていた。
「東への道は全て封鎖したと思ったが、そんな抜け道があるとは知らなんだ」
「今後のことを考えれば、精査の必要がございますな」
「……今後のことは、後回しでいい」
寡黙な将がそう言えば、列席からも同意するような反応が多かった。
なので、まあ確かにそうかと、伯爵と軍師も話を戻す。
「さて、これからどうするか」
現状を見た時、伯爵軍は非常に不利と言わざるを得ない。
兵士の腰に食料袋をぶら下げて、2日分の食料を持ち進んで来た。しかし進むにしても、ここから先は敵地であり、満足な補給は受けられない。
かと言って、後方からの支援は望めない。荷車は破壊されたし、食料を備蓄してあった味方の家も襲撃を受けているので、補給は絶たれてしまった状態だ。
軍師としてはこのままアースガルド家に攻め込み、略奪で賄うのが一番の上策だと考えていた。
だが、どうやらその戦法は使えないらしいと知り、渋い顔をしていた。
「子爵領に食料が無いと?」
「は、はい。その通りです」
国内最大手の商会から派遣されてきた男は、軍議の末席で申し訳なさそうに縮こまっていた。
彼はクレインの策を何一つ読めず、失点を重ねてしまっているため、このままではヘルメスから消されてしまうと恐怖に怯えていた。
「裏方のことは閣下もご存じない。順に説明せよ」
「は、はい。元よりアースガルド子爵領は人口の増加に見合う農地を持っておらず、食料は南伯からの輸入に頼っ」
「……何でもない。続けてくれ」
南伯からの、という単語でヴァナルガンド伯爵の眉が僅かに動いた。
失言に気付いた男の報告は一瞬止まったが、促されて先を話す。
「は、はい。我々は南から食料を仕入れてはいましたが、半分を子爵領へ卸して、残りの半分を男爵領へと持ち込んでいます」
「それで男爵領が3年は飢えぬほど持ち込まれているのだから、大した量だ」
輸送力はやはり国一番だろう。諸将もそう思うが、ここで当然の疑問が湧いてくる。
「閣下、よろしいですか?」
「ああ、許す」
「では……おい商人。それだけの食料があるのなら、アースガルド家にも備蓄があるはずでは?」
この意見は正しい。いや、正しかった。
実際に、前回のクレインはそれで敗北している。
「そうだ、攻め落としてそれを奪えばいい!」
「いくら食料不足と言っても、我々の食を賄えるくらいはあるだろうな」
アースガルド家には大量の食料が持ち込まれていたのだ。子爵領を占拠すれば3万を超える軍勢でも、一時的に食わせていくことができるはずだった。
前回は、騎士爵家からの補給も間に合う見込みで動かれていたので、正面決戦で滅んでいる。
しかし彼らの進軍を防ぐために、今回のクレインはとんでもないことをした。
「余剰の食料ですが、そのほぼ全てが砦に持ち込まれ……焼き払われました」
「なっ!?」
クレインは本気で籠城するつもりだと見せかけるために、砦へ大量の物資を搬入した。
それはヴァナルガンド家が略奪するための食料を、この世から消すためでもある。
燃えたのは、全軍。1万3000の兵が、3ヵ月食っていけるだけの食料だ。
南伯からの輸入で何とか回せていた程度の食料事情なのに、そんな量の穀物を、一体どこから持ってきたのか。
答えは簡単。アースガルド領の蔵という蔵。その全部だ。
春まで食いつなぐための食料を全て買い集めて、商人たちが持っている在庫まで、全て買い占めて――丸ごと全部、燃やした。
「庶民が備蓄していたものを除けば、子爵家に残された食料は1週間分も無い、かと」
「そ、そんなことをしたら、アースガルド家は滅ぶのではないか!?」
つまり領内に食料がほぼ無く、今は真冬。今までのペースで輸入を続けたとしても、行き渡る前に餓死者が出るだろう。新たな食料が獲れる時期でも無いので、半年は飢餓に苦しむ。
と言うよりも、このままではアースガルド領に住む人間の大半が餓死するのも、時間の問題だった。
「ば、バカな……」
「子爵は、乱心したのか……?」
この報告を聞いた諸将は狂気の沙汰に驚き、口をあんぐりと開けている。
一体クレイン・フォン・アースガルドは何を考えているのか。歴戦の将でも彼の行動は理解できず、軍議の参加者は誰も彼もが、思考に空白の時間を迎えた。




