第百四十六話 変わったもの、変わらないもの
どんな形であれ、事態が動いた際には人員が必要になる。遠隔地であれば尚更だ。
現地に常駐する人間も確保しておかねばならないため、包囲作戦のセットアップ段階で、南北の同盟者に駐在員の話も通す必要があった。
そのためまずは、「交易についての話し合い」という名目でトレックが南部に出向き、次いで「外交の挨拶回り」という体裁で、エメットが北部に赴いている。
「それで、南は特に問題無しと」
南方のヨトゥン伯爵領は隣接地であり、すぐに連絡が取れる相手だ。
以前から親密な関係を築いてきたことはもちろん、アストリの輿入れで正式に一門入りしているため、他家よりは深い話がしやすい相手でもある。
「東伯との戦いで、駐留軍のやり取りまでしたんだから、共同作戦はこれまでの流れで何とかなるだろうな」
使者を担うトレックとて、先方からすれば大口取引先なのだから、下にも置かない対応で順調に話が進んでいた。
昨晩に届いた報告書にも、ヨトゥン伯爵直々の歓待を受けつつ、大筋で話をまとめ終えたと記載がある。
南に関して言えば、とんとん拍子と言えるだろう。
「当面の課題は、北か」
一方で北部での動きは、立ち上がりがやや遅かった。最初の経過報告が届いたのも、つい今朝のことだ。
しかしこれは担当のエメットにも、同行者たちにも特段の瑕疵は無い。
ある程度、遅くて当たり前なのだ。
こればかりは仕方がないと首を振りつつ、クレインは届いたばかりの簡潔な報告書を読み進めた。
「直通の近道を作ってはみたけど、やっぱり北とのやり取りは時間がかかるな」
まずラグナ侯爵領までは単純に遠い。道は整備したが、難所もまだそれなりにある。
だからどうしても、物理的に連絡の行き来が遅くなる。
そしてエメットが、ヴィクターと直に話す機会もそうそう無い。組織が大きい分、意志決定までにそれなりの手順がかかるのも当然だった。
「とりあえずは侯爵家の外交担当と、会談の予定を組んだ……か」
まだ具体的な、協力案の策定にまでは漕ぎ着けていない。それでも前進はしているようなので、クレインはひとまず、予想外の事故が起こらなかっただけで及第点とした。
「こう内密の話が続くと、外交部を作っておいて本当によかったと思うよ」
彼は報告書を片手に、傍らで事務処理をしていたブリュンヒルデを、ちらと見た。
何の話だろうかと顔を上げた彼女に、クレインは続けて言う。
「あくまで表向きの実働部隊は外交部だからさ」
「ええ、極力そちらを通した方が、円滑に進むかと存じます。機密となれば、民間人に任せるわけにも参りませんので」
通常の手紙であれば、運送業を営むヘルモーズ商会や、馴染みの行商人に配達を頼むこともあるだろう。
しかし国家転覆がどうの、という話なのだから、家中で収めた方が穏便で確実だ。
今回の派遣が、高度に政治的な相談というのはさておき、そもそも貴族家が交渉する場面に、一介の商人が登場する機会など無い。無いはずだ。
「ああ、うん、それはそうだ」
「何かございましたか?」
「いや、何も」
――が、実のところ、この点に関しても過去のクレインはやらかしている。
というのも、飢饉が回避できるほどの種籾や種芋を、寒冷地種の在庫がある北部から大量に買い付けて、南部に運んで育てるまでの、一連の契約のことだ。
昔から屋敷に出入りしていた行商人のトムに依頼し、方々から運搬役の商人を集めてもらった上に、売買の契約まで代理で済ませてもらっていた。
互いの政策に関わる大規模な輸出入をしたというのに、その全てを民間の、しかも個人事業主に任せきりだったのだ。
領主に話を通さず、無許可でやったことなので、外交的欠礼と言われても反論はできない。
もっともその商売実績のおかげで、北侯とも関係値がプラスの状態からスタートできたわけだが、今となっては荒技にもほどがあった。
クレインは苦笑いをしつつ、今後は儀礼的な手続きも踏んでおこうと誓いながら、冗談交じりに続ける。
「確かに、たとえばあの朴訥なトム爺が北侯と面会したら、威圧感で心臓が止まるかもな」
「長く行商をしていれば、貴人との面会経験もありそうですが……意図を正確に伝えきれない可能性はございますね」
ブリュンヒルデは中央方面とのやり取りを担当しているが、アレスの帰還後も王都には戻らず、以前のようにクレインの下で働いている。
もちろんアレスが王都に帰還したのだから、中央での実質的な指揮官はアレスだ。
彼にしかできない調査があり、向こうでの手勢も、今ではそれなりに揃っている。
そのためブリュンヒルデにとっては、アースガルド領での連絡要員こそが、現地での仕事ということになる。
奇妙な逆転が起きていたが、何にせよこれは他の裏方担当に比べると、業務負担が少ない。そのため、アースガルド家に残った彼女が何をしているかと言えば、以前と変わらない秘書業務だ。
領地を出ていた間の引き継ぎや、業務の把握を済ませた今、本当に従来通りの働きに戻っていた。
「……これでいいんだよな、多分」
領内に関して言えば、家臣同士で話をした方が早いに決まっているので、作戦のほぼ全てがマリウスの管轄下にある。
彼はもとよりクレインの補佐官として動いていたので、勝手知ったる全体指揮だ。仮にこのまま全権を預けたとしても、全ての物事が何事もなく回るだろう。
エメットは北部出身であり、ラグナ侯爵領は地元。トレックは正味、どことでも関係があり、強いて言えば南か中央との関係が深い。
だから至極、合理的な采配に収まっている。
今のところは、何ら懸念も見つかっていない。
それでも歯切れが悪いクレインを、ブリュンヒルデは不思議そうに一瞥した。
「いかがされましたか?」
「いや、この状況が何か落ち着かないというか」
改めて顔を見合わせても、ブリュンヒルデは相変わらず柔和な表情で、視線すら優しげだ。
執務室で見る姿は、いつも、どの瞬間でもさほど変わらない。
執務室の外では全く別な歴史が動いているが、執務室にいる限りは見慣れた光景なのだ。
そして、裏切り者の内定作戦で無数に命を落とした今、懐かしい光景でもある。
変わっているようで、変わっていないような。
一時期は毎日の光景だったはずが、今では非日常のような。
ブリュンヒルデはただ出張に行ってきただけであり、領主補佐の任務は継続中だったのだが、クレインの主観では本当に、何とも言えない状況だった。
「一緒に仕事をするのが、久しぶりだからかな」
彼女にとって、こうした日常に戻ってきたのは数ヶ月ぶりだが、クレインにとっては一つの時代が終わるほど長い期間が空いた。
振り返れば――いつ殺してくるか分からない秘書と――二人きりで仕事をするのは、何年ぶりのことだろうかと、クレインは益体もないことを考える。
「それともここ最近は、大人数でいるのが当たり前だったからか」
クレインは適当に話をまとめたが、これに関しては率直な感想だ。
拡大に次ぐ拡大で、領民も家臣も増えに増えている。静かな執務室で、黙々と書類の受け渡しをしていた頃など、遙か彼方の出来事だった。
「君が出ていた間にも、人の流入は進んだからな。様変わりしたところもあるんじゃないか?」
「引き継ぎは完了しておりますので、ご心配には及びません」
王都近郊やラグナ侯爵領都といった都会で、軍人としての任務を終えたばかりのため、口調にやや硬さは残っているものの、個人的にも勢力的にも、過去一で友好状態なのは間違いない。
しかしそれが、殺されないこととイコールかと言えば、否だ。
王女の捕縛作戦は順調に展開しているが、実のところ、クレインの懸念は目の前にある。
「……さて、決裁の書類はこれで全部か。そろそろ一休みしよう」
「承知しました。お伝えして参ります」
マリーはメイドの業務を辞めて、領地経営などを学んでいるところだが、だからといってブリュンヒルデが給仕をするわけではない。
使用人を呼びに出た彼女を見送ると、クレインは椅子に深くもたれかかり、窓の外に広がる秋空をぼんやりと見上げた。
思い浮かべるのは、これまた今となっては、遠い過去の出来事だ。
「……そろそろ、か」
アレスが暗殺された現場に、ブリュンヒルデがいたことは明らかになっている。
介錯。苦しまぬようにトドメを刺したとも、本人の口から聞いている。
そのことを踏まえた上で、彼女を操った人間と、声をかけられた時期が不明のままなのだから――何らかの働きかけで、既に内心が変化している可能性はあった。
「この包囲網形成が、どこまで効いているかは未知数としても、王女は確実に追い詰められている」
ならば、窮地の王女が放つ最後の切り札として、使うに惜しくはないはずだ。
東方面の捜査を指揮するクレインを排除できるなら、仕込んでいた近衛騎士の使い所ではあるだろう。
「たまたま俺たちと接見できる距離にいなかっただけで、既にマインドコントロールが完了しているとしたら。動くのに最良な時期は、今だろうな」
使い捨ての暗殺者が騒動を起こし、警戒体制が敷かれたことで、逆に襲撃を成功させやすくなっている。
近衛騎士という立場上、有事の際はむしろ、要人の傍にいる機会が増えるからだ。
「王都に戻ればアレスを。アースガルド領に残れば俺を、簡単に暗殺できる位置にいるんだ。最後の安全策に残しておいた……という考えはあり得る」
クレインの排除を命令した場合、それは二の矢というよりも、本命として機能することは想像に難くない。
つまり、今は本当に、秘書から命を狙われていたあの頃と近い状況にあった。
「そんな事態が起きれば、時を戻して対応するけど……その後がどう転ぶかな」
もちろんクレインの所感では、彼女の行動におかしい点が見当たらなければ、言動にも何ら変わりない。
配置の変化によって、敵が手を下す隙が無くなったと考える方が自然だった。
だが内心で、何をどう思っているのかなど、外見で知れるはずがない。
問題はそれを踏まえた上で、何が懸念となるのかだ。
たとえば、捕縛したアクリュースの逃走幇助や、各種工作への加担はあり得る。
しかしそれ以上に、情報の隠匿や握り潰しによって、王女が発見不能になるリスクがあった。
「虚偽報告があれば、別な経路から分かるはずだ。裏切った様子が無いことも分かっている。……でも、王女を捕らえる前に、明らかにしておくべきことではある」
どのような展開になろうとも、手遅れになることはないだろう。だが、楽観して構えるのは慢心だと、何度も己を戒めてきた。
だから白にせよ、黒にせよ、確定させたいというのがクレインの本音だ。
「……どこから何が出てくるのか、さっぱり分からないな。これは久しぶりに、殺されるかもしれない」
そうは思いつつ、むしろ後顧の憂いを絶つという意味で、気持ちとしては前向きだった。
当人のブリュンヒルデとも、事情を知っていそうなピーターとの信頼も、十分に築けたと思っているからこそだ。
「この計画にも一段落ついた。……明日にでも、ピーターと話してみよう」
過去に発生していて、清算していない案件はそれくらいだ。事件に関わっていた人間を洗えば、今後、何が起きるかも推測できるだろう。
どこまで話してもらえるかは分からないとしても、尋ねるならば今。
そう思い、クレインは調査計画と平行して、過去の真相を明らかにすると決めた。
次回の更新は12/14(土)を予定しています。




