第百四十四話 手出し無用
クレイン・フォン・アースガルドは回帰者である。
その前提で考えれば、これまでの全てに説明がついた。
「訳もなく友好的な理由は、どこかの人生で深く関わったからだろう」
互いに、相当に、信頼の置ける相手として見ていたはずだ。
そうでなければ、ビクトールが内心を打ち明けているはずがない。
何かの折に北部を訪れたクレインは、塾生と共に学び、そのうち教壇に立ち、自らの右腕として働いた。
今のビクトールには、そんな未来さえ見えていた。
「アイテールくんの話によると、住処も指定されていたらしい。もしかしたら、そこに住んでいたんじゃないかな」
「しかしそれでも、未来は変えられなかった……か」
北部に住居を構えて、幸福な一生を過ごしたのなら、新進気鋭の領主として戦いに身を投じることはない。
そしてクレインの隠棲により、世情に大きな変化が生じなかったとしたら、行く末はどうなっただろうか。
順当に行けば何が起こるかまで、両名には見当がついた。
「警戒心の無さを見るに、こちらの事情は何も知らないだろうし、僕が気づくのも今回が初めてのはずだ」
「なるほどな。それはそうとして……」
数々の違和感を確かめるため、実際に現地まで赴いて実情を目にしてきたのだから、最早疑う余地は無い。
グラスに残った酒を呷ると、この話が事実という前提で、国王は尋ねた。
「この話を持ち込んだ意図は、どこにある」
どのような考えで報告してきたのか。どんな対策を打つべきと思っているのか。
曖昧に尋ねられたビクトールは、瞑目しながら笑った。
「意図と言われてもね。壮大な思惑も、怪しい企みも無いよ。……言った通りに、ただ報せただけさ」
「では、何を望んでいる」
クレインの意向次第で、国の行く末が左右されかねない。
ならば一国を預かる王としては、最重要で取り扱う案件だ。
国王は真剣な面持ちで問うが、顎に手を当てたビクトールは、事もなげに言う。
「別に、何も」
「何も?」
「ああ。強いて言えば、手出しは無用……という話かな」
言われるまでもなく、国王とて不用意に手を出すつもりはない。
むしろクレインへの手出し無用は、彼が王宮の人間に厳命してきたことだ。
たとえば、クレインを追い落とそうとする讒言を全て無視して、領地の勢いを削ぐような事態は阻止してきた。
ヘルメス商会への調査と問責については、なるべくアースガルド家の動きと合わせて調整し、政敵の排除にも多少の援護を送った。
領地の加増についても、廷臣たちの反対をねじ伏せて、国王の一存に近い形で倍増を決定している。
アースガルド家は東方戦線の要なのだから、多少の無茶があろうとも便宜は図ってきた。
「無論、当面は否が応でも頼ることになるであろう。今すぐにどうこう、という話ではないが……」
「不安かい?」
「まあ、な」
国王にとっては、いつ国を滅ぼすかも分からない、荒神や邪神を招き入れたようなものだ。
いや、それに気づかないまま過ごしていたと知らされたのだ。
この事態に、少なからず動揺はしている。
だから唐突な告知に対する次善策はそうそう出てこないが、そもそも現状では、策を練ること自体が悪手になりかねない。
下手に排除を試みて、暴発すれば、全てが終わるからだ。
「掛けた労力。得られる利益。万が一の危険性……さて、どう秤に載せるか」
「頭が痛い問題だね」
「誰のせいだと」
「少なくとも、僕のせいじゃないさ」
確かにビクトールは状況を教えただけで、一見すると全くの無関係だ。
悠々と酒を飲む旧友に顔を顰めたが、それはそれ。
秤の上には、これまでアースガルド家に掛けてきたコストも、重くのしかかっている。
というのも国王からすれば、滅多に登城もせず、派手な改革を繰り返すクレインに代わり、中央での政治闘争を引き受けてきた形だ。
有形無形の援護を、幾つ送ったことだろうかと、彼は指折り数える。
もちろん銀の利権に対する利益は受け取っているが、表裏を問わず送った各種の支援に対しては、まだ利益や恩恵を得られていない。
危険な力を持っているからと取り除くには、過剰な投資をしてしまっていたのだ。
それも加味すれば静観の一手だが、やはり将来を見据えた備えは必要ではないか。
考えを巡らせる国王に対し、表情を崩したビクトールは、更に付け加えた。
「ちなみにクレイン君は、アレス殿下の、唯一の友人だそうだよ」
「……痛いところを突く」
息子のアレスは有能だが、感情の機微に疎く、お世辞にも声望が高いとは言えなかった。
だからこそ、有力な地方貴族と友誼を深めていることは、社交性の向上を考えても、求心力を考えても喜ばしいことだ。
しかし相手が禁術の対象者となれば、これまた話が変わる。
息子の名を出された国王は、最悪の事態を想像しながら尋ねた。
「アースガルド子爵に、術を掛けたのは……アレスなのか?」
「それがどうにも、違いそうでね」
「何?」
真っ先に考えられる展開は、後継者として認められたアレスが開かずの間に入り、国難を回避するため禁術を発動したという展開だ。
しかし2年前の状況を鑑みれば、どうしてもこの流れにはならないと、ビクトールは確信していた。
「殿下はとにかく猜疑心が強かったからね。儀式をしたなら禁術は、自分に掛けたはずさ」
「親の前で、酷い言い草だな」
「それもまた事実。ということで」
更に言えば、彼らの初対面は国王への謁見後だった。つまりアレスからすれば、付き合いが浅い、外様の人間という関係になるはずだ。
周囲の人間すら信じていないというのに、そんな人間に術を掛ける理由が無いというのは、国王からしても頷ける話だった。
「そうでなくとも、あの術は、他人に掛けることを想定していないだろう」
「確かに、余程の事態でなければな」
元より禁術は、発動者が自ら使用する前提で発動させる。
ビクトールからしても、国王からしても、それは共通認識だ。
のっぴきならない事情があれば別だが、それを差し引いたところで、回帰を始める前のクレインはもとより、選ばれる対象に入っていなかった。
「信頼できる部下を、きちんと抱えている陛下。人への不信感が強いアレス殿下……いずれにせよ、だね」
「どちらにも、術を掛ける理由は無いな。機会があるとも思えぬ」
どのような経緯でクレインが指定されたのかは、本人に聞くまでは分からない。
しかし肝心の、術者を推測するだけなら簡単だ。これは消去法だった。
「だとすれば、アクリュース殿下ということになる」
「書架が焼き払われた理由も、そこにあるか」
アレスの暗殺未遂の調査結果に付随して、アクリュースの手勢が王宮で活動していた痕跡が見つかっている。
アレスが放火という形で介入しなかった場合は、機密を持ち去られていただろう。
ならば本来の歴史では、アクリュースが術を持ち出した可能性が高い。
であればクレインに禁術を施したのもまた、彼女になるはずだ。
しかしそれを察した国王は、悲哀混じりの溜め息を吐いた。
「……愚かなことを。それが何かを、どういう性質のものかを、知りもせずか」
何度も人生を繰り返し、自在に歴史を変えられる。ただそれだけの力なら、王家が恒常的に独占運用していることだろう。
何故、その使用が禁止された上で、徹底して秘匿されているのか。
アクリュースは、その理由を知らない。
となれば禁術の子細や、デメリットについても、深くは理解していないことも自明だった。
「代償を知っていたのなら尚更、術者以外への使用を考えないはずだ」
そもそも、時渡りの術を使う必要がある王族は、一人だけだ。
だから当たらずとも遠からずとしつつ、ビクトールはグラスを傾ける。
強めの酒を流し込むと、一息置いてから、彼は更に続けた。
「さりとて。クレインくんが術の対象者となり、反乱軍に付いていたとしたら……東伯軍の指揮下に入ったはず」
王国軍が仕掛ける全ての作戦を看破して、カウンターを取れる参謀がいたのなら、もう打つ手は無い。
しかし実際には、全面戦争に近い形で東伯軍への迎撃戦を行い、逆侵攻まで仕掛けていた。
東伯軍との殺し合いになった以上、アクリュースの旗下にいるとは考えにくい。
「既に、手は切れていると?」
「ヘルメス商会への対処とか、ヘイムダル男爵への扱いとかを見ていると、味方の時期があったのかが怪しいくらいだね」
しかし術を掛けたのがアクリュースなら、現在のクレインが、反乱軍鎮圧の急先鋒に立っていることすら不可解だった。
何せクレインの離反は、最大の痛手になりかねない。
どんなトラブルがあれば、回帰者という大駒が離反して、敵対することになるのか。
ともすれば反乱が成功した後、始末されかけたから裏切った……という線も考えられるが、確信に至る材料は無い。
「こればかりは、分からぬか」
「ああ。けれど少なくとも、この情勢で……敢えて敵に回すことはないだろう?」
アレスの友人であることを抜きにしても、やはり処遇を考える時期にはない。
ならば何故、ビクトールはこの報告を持ち込んだのか。
「今は……」
国王が視線を向けると、ビクトールは身を乗り出して言う。
「いや、できればこの秘密、墓まで持っていってほしい」
「その理由は?」
「僕らが黙っていれば、彼はただの、優秀な人材だからさ」
それが建前であることは、見透かされている。そんなことはビクトールの目にも明らかだった。
だから彼は苦笑をしながら、お手上げの姿勢で言う。
「あそこまで無垢に、無条件に信じてくれているんだ。その期待を裏切るのは、義に悖るというものさ」
ビクトールがクレインを裏切れば、大なり小なり、心に傷を残すだろう。
道理に背く行いであることも、間違いない。
一歩間違えば、クレインが東西のどちらかと、緊密な関係になる未来もあり得る。
「それで?」
それすらも建前だと見て、国王は続きを促した。
するとビクトールは頭を掻いて、いたずらがバレた子どものような表情をしてから、口の端に笑みを浮かべつつ返す。
「クレイン君が僕を信じるように、僕も信じているんだ。これからの彼らを。そして、築く未来をね」
暴露をしようと思えば、機会はいくらでもあった。それでもビクトールが手出し無用を貫いてきたのは、クレインとアレスが、力を正しく使うと信じているからだ。
これは本心だろうと思い、国王はこの日始めて、口元に笑みを見せた。
「随分と、買ったものだ」
「こんな世の中じゃ、優秀さと善良さを兼ね備えている子は少ないんだよ」
能力と実績を信じて任せられること。人柄を信じて頼れること。
要するに信用と信頼だ。まだ未熟ではあるが、クレインにはどちらもある。
これに関しては嘘偽りのない感想だと自覚しながら、ビクトールは話の結論を、改めて上奏した。
「だからこそ、僕らの役目はあくまで露払いだ」
もちろん時間遡行の力が、戦いのために使われる――兵器には違いない。
扱いを間違えれば、どんな歴史が刻まれていくかも分からない。
しかしそれでも、人柄を信じることにした。
それが、彼らを間近で見てきたビクトールの、最終的な意見だ。
「迂遠なことだな」
「……弟子が目指す将来に、責任を持とうとした。ただそれだけのことさ」
王都で何をしようとしているのかは、事前に伝達してあった。
直接伝えるべき話も、全て伝えた。
その上で、改めて、ビクトールは居住まいを正して言う。
「アレス殿下の安全は保証しよう。他の計画も、滞りなく進めていく」
国王にとり、ビクトールは信頼の置ける家臣の一人だ。
諸々を考えても、アレスやクレインに不利益な取り扱いはしない。
そこまでの合意が取れた上で、ビクトールは不意に、表情を曇らせた。
「今に至っても、融和を求めていたことは知っている。穏便に済むことを願っていたとも思う。だけどもう、猶予は無い」
王家と公爵家が健在であれば、交渉による平和への道も残っただろう。
しかし今となっては、無血で講和が成る確率は低い。
そして、その低い確率に執着すれば、今後の対応が後手に回る。
だからもう、武力による決戦を避けられない前提で、全面戦争に舵を切る覚悟を決めるべきだ。
改めて突きつけられた現状を前に、国王は深々と溜め息を吐いた。
「……決断の時、か」
「ああ。騒乱を甘受した上で、アクリュース殿下の命も諦めてほしい」
アレスまでもが死に瀕した際は、自らの身体で禁術を発動することも考えた。
争いを好まず、家族や臣民を愛する、徳治主義者としての王でもあった。
だからこそ、情状酌量を認めつつの融和政策を唱えてきたが、それにも限界がきたということだ。
政治方針の転換を求められた彼は、沈黙の後、首を縦に振った。
「かくなる上は、致し方あるまいな」
「では、諸々の許可を得た……と、受け取ってもいいのかな?」
「余の命により、全権を与えよう。区切りが付くまでは、報告も最小限でいい」
「分かった、子細は任せてもらおうか」
白地手形を得たビクトールは、拝命の礼をして席を立つ。
そして部屋の奥に向けて、ゆっくりと歩みを進めた彼は、最後に振り返って言う。
「また、顔を出すよ。そう遠くないうちに」
それだけ言い残して、彼は城外に続く避難路に消えていった。
残された王は、残り少なくなった酒瓶が空になるまで、窓の外に浮かぶ星々を眺めながら、一人思索に耽る。
次回の更新は11/2(土)を予定しています。




