百四十三話 術がある
宵の口を過ぎて、日がとっぷりと暮れた頃の王都。
時は、レスターがアレスに伝令を送る、4日前のことだ。
「やあ、お邪魔しているよ」
燭台の下でくつろぐビクトールは、酒で琥珀色に染まったグラスを揺らしながら、家主に挨拶した。
しかし声を掛けられた初老の男は、鷹揚な態度にしかめっ面で答える。
「人の寝所で勝手に始めているのは、お前くらいのものだな」
「そうだね。入口を知っている人間は、片手で足りるだろうし」
この部屋には会議室ほどの広さがあり、奥側には暖炉がある。男がその脇に目をやると、緊急避難用の隠し通路が開かれていた。
つまりビクトールは秘密の通路を逆行して忍び込み、他人の私室で、勝手に酒を嗜んでいたということだ。
「……まったく。隠居暮らしを終わらせて、復職する気にでもなったか?」
「それはまだまだ、先の話かな」
呆れ混じりの溜め息を吐いた男は、空のグラスとボトルが置かれたテーブルを一瞥すると、無言でビクトールの対面に座った。
そして、深く刻まれた眉間の皺を更に寄せながら、右手を差し出す。
「まずは一杯、寄こせ」
「ちなみに、冷えてはいないからね?」
「ここまでするなら、氷室にくらい寄ってから来んか」
蒸留酒をとくとくと注ぎ、男二人はテーブル越しに顔を突き合せる。
そうして、二杯、三杯と無言で酒精を流し込んでから、家主の男は衣服の装飾品を外しつつ、ゆっくりと切り出した。
「しかし、何年ぶりかの再会が、こんな場になろうとはな」
あるときを境に、ビクトールは北部から出てこなくなった。
それは最早、遠い過去の話だ。
地方に引き籠もっていた旧友の面を眺めて、男は続ける。
「理由も無しに、このような真似はするまい。何ぞ、急ぎの用か」
「まあ……そうなるかな。今日はこれを渡しにきたんだ」
ビクトールは目を伏して、手元の封筒を差し出した。
中身はアースガルド領、そして領主についての調査報告書だ。
早速封を解き、文書を検めようとした男は――冒頭の一文に目を見開く。
「……これは」
情報提供者には信頼があり、誤情報を持ち込むはずがないと信じている。
だから平素ならば、真偽を尋ねるほど野暮ではない。
だが、それでも男は、聞き返さずにはいられなかった。
「この報告は、アースガルド子爵に関する見立ては、真か」
「少なくとも僕の中では、事実かな」
ビクトールの報告は、観測者の主観が入る真実ではなく、客観的な事実だ。
確信に至った理由が要るだろうと、彼は順に根拠を並べていく。
「――始まりは、侯爵家の文官候補者に課している、ただの試験だった」
ビクトールの私塾では、ラグナ侯爵家に流すための人材を育成していた。
推薦を得るためのテストをパスするには、周辺領地に関する知識はもちろんのこと、侯爵家にまつわる歴史や、今を取り巻く環境への深い理解が必要になる。
複数回の考課には、引っかけ問題も多分に含まれているのだ。幼少期から侯爵家の文官を目指していたとしても、いくらかの失点は承知の上で挑まねばならない。
侯爵家の家臣になるために教えている、私塾でしか教えていない内容まで含まれたテストを――クレインは満点で合格していた。
英才教育を受けた子弟たちが数年かける道程を、ただの一月で飛び越えている。
「北部の情勢に疎い遠方の人間が、初見であの成績を修めたんだ。優秀という枠には収まらないよ」
「天稟の傑物であった可能性は?」
「ゼロじゃない。だからこれが、始まりだった」
ビクトールはクレインのことを、過去よりも気に掛けていた。出会い方が違うがゆえに、より異質さが目についたからだ。
そのためクレインの動向をつぶさに調査したが、結果として、行動には不可解な点が散見されている。
「まずは、足取りが淀みないことだね。初めて訪れたはずの場所でも、自分の庭のように過ごしていた」
道に迷うことがない、程度ではない。ラグナ侯爵領都に長いこと住み、近隣に精通しているかのような振る舞いだった。
だからもう一歩踏み込み、領地や、過去の経歴まで調べてみた。
しかしクレインには、北部に住んでいた過去はおろか、滞在していた形跡さえ無い。
素性が上がっても、平凡な青年以外の評価が無かったのだから、これでは何か裏があると疑うのが当然だ。
「だから、東の手の者かとも思ったんだ。潜入工作員かもな……って」
「過去形か」
「友好的だったんだ。不自然なくらいにね」
裏表なく、全幅の信頼を置かれている。
これは、ふとした態度や仕草、声色から読み取れるものだ。
理由が分からない好意を訝しみはしたが、どうしても悪意や隔意を感じられず、調べたところで不穏な情報は何も出てこない。
「そもそも、秀才や天才として潜り込むなら、それなりの過去を用意しておくものだよ」
「まあ、そうだな」
間者であれば、ここまで目立つことも、不自然さを残すようなこともしないだろう。
集めた情報をどの角度から検討しようとも、どう考察しようとも、ビクトールの疑問は深まるばかりだった。
「それから直接のやり取りでいくと……内心では思っていても、口にしていないこと。そんなもの誰にだってあるだろう?」
「我々のような者ならば、人並み以上にはな」
「それを全部言い当てられた、ということもあったねぇ」
隠居してからはどんな家に住みたいか。どのような老後を送り、趣味に何をしようか。
そんな将来設計を、ビクトールは公言したことがない。
そうであったらいいなと、一人で空想して、思いを馳せていた程度だ。
「隠居後の計画を口にして、前にこんな別荘が欲しいと言っていましたよね……と。そんなこと、誰にも話したことがないのにさ」
事実として、クレインが用意した家の仕様は、ビクトールの理想通りだった。
自身の願いや、望みを知られていたことになる。
しかしどれほど優れた間諜であっても、思考や想いを盗みとれはしない。どこから知ったのかと考えても、「知れるはずがない」という答えが模範回答だ。
会話を思い浮かべたビクトールはおかしそうに笑い、対面の男は更に先を促す。
「それで、確証を得るために、招聘の提案に乗ったと?」
「考えれば考えるほど、おかしな部分が目に付いたからね。ここは博打のしどころかなと思ったんだ」
わざと現地入りを遅らせて、人を送り、アースガルド領についての調査を行った。
そこに現地協力者からの助力もあり、手元の調査報告書は万全に整えられている。
「ようやるわ。それでヴィクターの奴は、頭の血管が切れる思いをしたというのに」
「……それはまあ、言いっこなしさ」
しかしそうして、更なる調査を進めたところ、領主本人の動向以上に不可解な点が散見された。
アースガルド領では、現実的にあり得ない動きが起きていたのだ。
「彼の家臣たちにも、それとなく聞き取りはしてみたけれど……予定と動向がちぐはぐだ」
「つまりは?」
「家の趨勢を賭けた開発計画の、始動直前に領地を離れるなんて、おかしな話さ」
高名な私塾に赴き、文官を獲得すること。王都に上り、役人を登用すること。
どちらも必要なことではあるだろう。しかしそれは、政策を実行に移す前にやることだ。
「クレインくんは度を超して優秀だった。だからこそ、やるなら筋道を立てて、整然とやるはずだ」
財産の全てを投げ打ち、領地改革を始めたというのに――計画開始と同時に――長期の旅に出た。
つまりはクレインが、何も考えていないただの馬鹿だったか、究極的に完璧な計画書が用意してあり、不在でも問題が無かったかの二択となる。
そして愚か者である可能性は、これまでの経緯から否定されていた。
だから男は、ビクトールにグラスを向けながら、反証を述べるように話す。
「長年温めて、前々から備えていたという線はあるだろう。事実、拡張も運営も順調なようだが?」
「でも領地の開発は、ある日、唐突に始まったものらしいんだ。一切の事前準備が無いままに、ね」
常識外れの飢饉対策を皮切りに、アースガルド領では大改革が行われた。
未発見の資源を次々と発見していき、軍事改革から都市計画まで一つのミスもない。その壮大な計画は、周囲の誰にも相談されないまま、見切り発車で始まっている。
他の計画は何ヶ月も、何年も先を見て準備されているのに、始まりの瞬間だけは無鉄砲に見えるほど杜撰だった。
これは、もしもの策を常に用意しておこうとする、クレインの性質とは合わない動きだ。
計画の規模と完成度に比べて、不気味なほど危機感も無かった。
「ともあれこの計画は、2ヶ月間も旅に出ていながら、遠隔で実現できるものだろうか?」
「難しいところだな。……相当に運が良ければ不可能ではない、といったところか」
ビクトールは頷くが、話はまだ終わらない。
領地を発展させるための政策、その実行過程に不可解な点があれば、それに当たる人材の集め方も不可解だった。
それを彼は、こう評する。
「文武を問わず、家臣の雇用方法も奇抜だった」
「奇抜、とは?」
「面識が無い中央部の貴族に親書を送り、三男を引き抜くために交渉してみたり。北部の平民に向けて、名指しで登用の誘いをしていたりと……まあ、いろいろさ」
会ったことも話したこともない上に、広く名前も知られていない者たち。
しかし領地に必要な人材を、クレインは的確に、ピンポイントで採用していった。
雇った人材で諜報部を組織してはいたが、それは勧誘を受けたマリウスの手によって作られたものだ。
であれば初期に持っていた人材の情報は、どこから入手したものなのか。
北部に関してもビクトールだけでなく、ほとんど塾生について、クレインが一方的に知っている節があった。
「そして雇ったその日には、出身地から趣味嗜好まで、ほとんどを把握していたんだ。元から知り合いだったみたいにね」
クレインは家臣が増えすぎて、名前を覚えるのが大変だとぼやいていた。しかしビクトールの私塾を卒業した生徒たちに関しては、前々から知っているような態度でもあった。
いつ、そこまで深い話をしたのかと驚くほど、個々人の事情や性格を理解していたのだ。
そして度重なる不自然は、施策や人材集めには留まらない。
他勢力への反応に関しても、不可解な点が目立っていた。
「ヴァナルガンド伯爵家の侵攻についてもだ。会戦の遙か前に対策を取り始めて、敵軍の作戦開始と同時に、返し手を打っている」
ヴァナルガンド伯爵領からアースガルド領までの間には、相応の距離がある。
だというのに、情報取得までのタイムラグが無かった。ということだ。
「負けたら終わりの博打を重ねて、当然のように、全てで成功を収めてきた。そんなことが……これに限らず、何度もあった」
敵軍の行動を見てからでは間に合わない作戦ばかりだが、予想で動いたにしては、正確さと精密さが高すぎた。
ビクトールはそれらを勘案しながら、始まりの日からの一連の流れを、別な言葉で置き換えていく。
「彼は存在しないはずの情報から、まるで、予知のように正確な戦略を立ててきたんだ」
何度も歴史を繰り返してきた、クレインにとっては当たり前の行動だ。
彼らの目にはこれが、どう映っているか。
「これから何が起きるかを、全て、事前に知っていたようじゃないか」
未来を知る術がある。
――否、過去に戻る術が存在する。
そうと知っている者たちからすれば、最も考え難いはずの、正解が見えてくる。
「これだけの材料が揃えば、推して知るべし、か」
「ああ」
全ての不可能を除外して、最後に残ったもの。
それがどれほど奇妙なことであっても、それこそが真実であり、事実なのだ。
「恐らく、クレイン・フォン・アースガルドには――」
目を伏せたビクトールは、一瞬口ごもり、言う。
報告書の冒頭に記載した一文と、同じ言葉を。
「僕の弟子には、時を遡るための禁術が掛けられている」
夏の熱気で更に温くなった蒸留酒を、ビクトールは一口に呷った。
彼は空になったグラスをテーブルに置くと、対面に座る男の反応を伺いながら、いつになく真面目な口調で付け加える。
「そしてアレス殿下も。……貴方の息子も、情報を共有している可能性が高い」
その疑いが濃厚となれば、報告せねばならない。
立場を抜きにした友として。そして、王国に住まう一人の臣下としてだ。
「……なるほど、な」
唐突に現れた、旧友からの報せを受け取った国王は、頭が痛そうな表情を浮かべながら、右手で額を覆った。




