百四十二話 理屈と感情
2日間の強制休暇を経て、クレインは業務に復帰した。
マリー、アストリと共に朝食を済ませてから執務室に向かうと、先に始めていたアレスとブリュンヒルデが、書類を選別しているところだった。
「休暇はどうだった?」
「久しぶりに楽しめたよ。いい息抜きになった」
「それは結構」
休みの間にアレスらが処理した案件を暗記して、やり直した方が効率的ではあるが、今回は敢えてそうしないことにした。
純粋な休息を挟み、いくらか明るくなった顔を見てアレスは言う。
「お家騒動の気配が無くて何よりだ」
「家族仲という意味ではそうだけど、悪い冗談だな」
基本的にはアストリとの子に家を継がせて、跡継ぎ以外は自由にさせるという方針でいるが、そこは子どもの意志を確認しながら進めるつもりだ。
まだまだ先の話でもあるし、そもそも正妻と夫人の争いや、家内の権力闘争など存在しない。
だから正しい意味でのお家騒動など、火種すら無かった。
しかし直近では、敵側の破壊工作員と密偵が総動員されて、屋敷内で武力衝突が起きていたのだ。
これと掛けた皮肉にも聞こえる発言に、クレインは苦笑した。
「まあ、冗談を言える程度の余裕はある……ってことか」
クレインも軽口を叩きながら自分の席に座るが、大半の案件はアレスの指揮によって決裁済みだ。
「この量であれば、すぐに片付くであろう」
「まあ、これくらいならな。……で、監査は?」
「問題は無かった。何もな」
実際には監査という名の職務代行だ。処理すべき案件の中から、明らかな越権となるものだったり、判断に迷ったりするものだけが、クレインの前に回されている。
計画が予定に通りに進んでいたこともあり、そう重い仕事ではなかった。
「……ではブリュンヒルデ、少し外せ」
「承知いたしました。執務室前で歩哨に立ちます」
入れ違いに出て行ったブリュンヒルデは、部屋の前で警護をしているマリウスと共に、残党からの襲撃警戒に当たることにした。
もとよりアレスの護衛を兼ねていたため、特に準備らしい準備は無い。
何事もなく席を立った彼女を見送ってから、クレインは難しい顔で言う。
「秘書をやっていた頃の印象が強いから、アレスとセットで執務室にいるところを見ると……何だか変な気分だ」
「時系列の整理は怠るなよ。どこで口を滑らせるか、分かったものではない」
「……まるで舅だな」
「小言を避けたければ、言われる前に直しておくことだ」
病的なまでに神経質なアレスと、元が大らかなクレインでは、圧倒的にクレインが注意される回数が多い。
アレスに対しては、「そこまでしなくても大丈夫だろうに」という感想を何度も抱いていたが、それは精神の摩耗や強迫観念のせいではなく、実のところ素の性格によるものが大きかった。
どちらともなく昔を思い出して苦笑いしたが、世間話の延長でアレスは続ける。
「しかし、まあ」
「なんだ?」
「いや、口で何と言おうとも、正妻の方は単なる政略結婚だと思っていたが」
幼馴染みのマリーとは昔から親交が深かった上に、どちらとも何となくの恋愛感情は持っていた。
クレインがどん底だった時期を共に過ごし、献身的にクレインを気遣い続け、逃避行の果てに結ばれたのだから、こちらは順当な恋愛結婚だ。
片やアストリだが、確かに最初は、後ろ盾を目当てにして結婚を画策した。
しかし今となっては全く違うと、クレインは何気なく否定する。
「どちらも恋愛結婚だよ。深く関わった人生が、違っていただけさ」
成り行きで結婚した後は、将来への不安と激務で疲労していたところを、一緒に乗り越えてもらった恩と情がある。
そうして、日々の暮らしの中で家族としての絆を育み、気が遠くなるほどの月日を復縁に焦がれてきたのだから、クレイン側の認識では恋愛結婚だった。
別な人生を歩み、別々に結ばれた後、どちらの縁も諦めずに、欲張りを発揮した結果が今だ。
しかし端から見れば、アレスと同じ見方になることも承知の上だった。
「ともあれ、アスティとも気安く接する機会が増えてきたからな。今回の件で仲が深まった気もするから、もう心配は要らないと思う」
「ならいいが、跡継ぎのことは考えておけ。ただでさえ一族が少ないのだからな」
そこはクレインにとっても頭が痛いところだ。気軽に頼れる親類がいないのだから、信頼できる人材も少ない。
縁故採用にも善し悪しはあるが、そもそも選択肢が存在しないのは問題だった。
「子どもが結婚することになったら、親戚は増えるだろうけど……付き合いが面倒になりそうだ」
「その面倒を背負って生きるのが、貴族というものだ。祖父母がいないのだから、父親が責任を負うしかないな」
クレインは基本的にインドア派で筆無精だ。外部と手紙でやり取りする習慣が無かったので、習字の段階からブリュンヒルデの矯正を受けている。
両親がもう少し長生きしていれば、とは思うが、言っても仕方がないことだ。
そう思うと同時に、ふとクレインは、北部にいた頃を思い浮かべた。
「そういう意味なら、ビクトール先生が祖父代わりだったか?」
「……は?」
「ほら、マリーとの子どもができたときに、いろいろとお世話になったからさ」
クレインたちには子育ての経験や知識が無く、身籠もった場所が地元でないのだから、助け合えるご近所も少なかった。
ラグナ侯爵領都で顔が広いビクトールからの援助が無ければ、もう少し大変な生活をしていただろう。
唯一の直属だったこともあり、この点ではかなり融通を利かせてもらっていた。
クレイン本人にも、親切にされた覚えは十分にある。
「アイテール男爵にも世話になったけど、一番様子を見に来てくれたのは先生だしな。差し入れも貰ってたし、生まれてからの教育法とかも相談していたんだ」
「……そうか」
「少なくともあの人生では、あのまま行けば祖父代わりになってくれたと思う」
出産を控えるアースガルド夫妻を見守ってきた、家族に一番近い人間がビクトールだ。
他家の要職に就いているので、今は無理だとしても、隠居後は子どもの傅役――要するに、世話役を兼ねた教育係――に招いてもいいだろう。という考えはあった。
この結論を受けて、アレスは憮然とした顔をする。
「ならばこの道で正解だ。あんな祖父を持った孫が哀れだからな」
「そう言ってくれるなよ。今の人生でも師事していた、師匠なんだから」
人材の斡旋から統率まで、領地の安定についてはかなり力を借りていた。
政策の判断に困ったときのアドバイザーという立ち位置でもあったため、師弟関係という点でも変わらずだ。
短期で私塾を卒業したとはいえ、今回の人生でも関わりはそれなりに深い。
アレスとの板挟みとまではいかないが、相変わらず嫌っているなと苦笑しつつ、クレインは将来のことを考えた。
「生き延びてから7年も経ったら、もう一度招いてみようか」
全てが片付き、子が育った頃には、互いにちょうどいい歳でもある。
だからクレインはこの招聘案について、至極真面目に検討し始めていた。
「……さて、そやつが今、王都でどれくらい働いたかな」
唐突に話題を変えてきたな、とは思いつつ、そこはクレインにとっても気になるところではあった。
予定に無かった事件を片付けたなら、次は本来通りの流れに戻るからだ。
「もともとの計画では、アレスを迎え入れてから暫くは……内政と外交に力を注ぐはずだったな」
「ああ。敵方の裏工作で止まっていたが、そろそろそちら側の裏工作も考えねばなるまいよ」
余計な横槍や讒言、流言を阻止するのは当然だが、反乱軍と戦う前に足場固めが要る。
それはグレアムが建てた山城の所有権獲得であったり、領地の力を背景にした政治力や、発言力を拡大するための各種施策であったり、各方面でのいろいろだ。
「王都方面はトレックと先生に任せきりだからな。アレスがここに滞在していることを考えても、もう少し気を配るべきかもしれない」
「敵方が手を打つ場所も減ってきたことだ。少なくとも、楽観はできぬだろう」
どこかのタイミングでは登城して、国王と面会する必要もある。
その橋渡しはラグナ侯爵家にしてもらう予定だが、その前に一つ、通過すべき関門があった。
「それなら、そろそろ考えておかないと」
「会談のことか?」
「襲撃があったから、そっちは延期されると思う。それこそ安定化が先だから」
当主会談のため王都に集まるのは、王国暦502年10月13日の予定だった。
敢えて開催の時期を変える必要が無いため、当初の計画では、過去と似た日程で開催するつもりでいたのだ。
しかしアースガルド家で騒乱が発生し、帰路のヴィクターも襲撃されたとなれば、秋口での開催は難しい。
冬場に動かせる案件も少ないため、雪解けした頃に話が進むだろう。
その流れが最も現実的なため、クレインはまだ先のことだと認識していた。
「ならば、他に何が?」
「アレスがいつ、王都に帰るのかって話だよ」
「……うむ」
アレスが王城を焼き討ちした件は、近衛騎士団長を通じて国王にも伝えてある。
しかしそれに対する反応が、何も返ってきていない。
第一王子が暗殺未遂に遭い、城の一部を燃やして逃げたという大事件の後にしては、嫌な不穏さすら感じる静けさだった。
「戻るにしても対策というか、場合別の問答集は欲しいんじゃないか? 準備しておかないと、後で困りそうだ」
「正論だが、癪だな」
「なら普段の言動を見直すべきだよ」
アレスは理屈で人を殴る傾向があるが、自分が言われることなどなかった。
当たり前だ。王子に口答えをする人間が、王宮のどこにいたというのか。
そして、言われて初めて分かることもあるが、正論の内容とは往々にして面倒なことか、難しいことだ。
「……貴重な意見として、受け取っておこう」
正論通りに進めるのが最善だとしても、「嫌なものは嫌」という個人的な感情はどうしようもない。
だからアレスにしては珍しく、感情面で拒否を示した。
しかしクレインは王都への帰還準備について、更に話を進めていく。
「……いや、陛下とのやり取りもそうだけど、いつでも動けるように計画は考えておこう」
「何故だ? まだ安全が確保された報告は無いのだから、急ぐことではなかろうに」
もうじき、掃討完了の報せが届いてもおかしくはない。
一方で、まだ焦ることではないことも確かだ。
では何故急ぐのかと言えば――
「いやさ、今、夫婦仲がいい感じなんだよ」
「だからどうした」
「家に王子様が下宿しているとさ、何となく、気を遣うじゃないか」
「……気を遣った上で、それか?」
「俺じゃなくて、主にマリーが」
アレスは居候の立場だが、ずっと部屋に引き籠もっているわけではない。庭園を散歩することがあれば、食堂で夕食を共にすることもある。
様々な事情があって実家に帰れないこと。そして身の危険があることを考えれば、アレスをアースガルド邸に住まわせることは当然なのだが、それではいろいろと差し障りがあった。
「アスティの膝枕で本を読んでいるときとか、マリーに茶菓子を食べさせてもらっているときとか……気まずくないか?」
貴人が家にいることを、常にやんわりと意識してはいる。
だがそれ以上に、自分が妻といちゃついている姿を、友人に目撃されると気まずい。
要約するとそういう話だ。これは身分の上下に関わらない、当たり前の話だった。
「つまり、ノロケか貴様」
話しながらも進めていた、書類作業の手が止まる。
そして、表情を険しくしたアレスと視線を合わせた、クレイン曰く。
「そうだが?」
何を当然のことを、という態度だ。
「……あと3ヶ月は滞在してやろうか」
言ってしまえば新婚なのだから、長期滞在が好ましくないことも、言わんとしていることも分かる。
だがアレスは、これにも感情が理由で拒否を示した。
「いやいや、そこまで居たら雪が降るかもしれないだろ。寒い中を旅するのは辛いぞ」
「経験済みだ。貴様は逃亡の身になり、冬の河下りをしたことがあるか?」
帰る帰らない。帰れ、帰りたくない。
そんな応酬が続く。
アレスがそこまで検討を渋っているのは、このまま王城に戻ったとして、親からどんな話をされるか分からないからだ。
もう王位継承者に指名されてもおかしくはない、立派な大人ではあるが、現状では思春期の家出少年と何も変わらなかった。
「いずれは絶対に通る道なんだし、そろそろ現実と向き合えよ」
「いつも視野の狭い、貴様が言えることか。……この件は後日、話し合うことにする」
クレインも妻との関係を改善、どころか向上させてくれたことに感謝はしている。
だが、それはそれ、これはこれだ。
家主と居候の言い合いは、昼食時を迎える頃まで続いた。
次回、第十二章エピローグは9/13(土)を予定しています。




