第百四十一話 監査と休暇
犯人と罪状が事件の前に確定しているのだから、拘束以後の取り調べは全て茶番だ。
家族と要人を避難させている間に、クレインは粛々と粛清を進めていた。
かねてからの予定通りに、淡々と、何事もなく処理が進んでいたかと思いきや――アレスの帰還と共に状況が一変する。
「今……なんて言った?」
アレスは寄り道して、必要だと思った人間を回収してから、クレインの執務室を訪れている。
現れたのが誰かと言えば、ピーターだ。
いまいち状況を掴めていないクレインは、まず、彼からの唐突な要求に復唱を求めた。
「某の職権により、監査を行います……と、申し上げました」
ピーター・フォン・シグルーンが――というよりも、シグルーン伯爵家が持つ権限は何か。
それは貴族家に対する、監督と検査の権利だ。
「似合わないことをしているようで、その実、本来のお役目なのですよ」
法務官のレスターが、出向先の領地で裁判を開けるのと同じことだ。
これは権利であるが、家業としてこの責務を担えという、家としての義務でもある。
「なるほどな」
ピーターは貴族家の不正を調査するためならば、領地の施設や貴族の邸宅へ、自由に立ち入る権利を持つ。
執務室の机から寝室のベッドの下まで、一つ残らず調べ上げる権限があるのだ。
今まで忘れていたというよりも、完全に考慮したことが無かった属性を思い浮かべながら、クレインは呟く。
「それが伯爵家の特権というか……職務権限か」
「左様でございますなぁ」
もちろんクレインは、彼を監査役として派遣したことなどない。普段は護衛、有事は将軍、緊急事態後は文官という使い分けをしていた。
ピーターがアースガルド家に来てから1年半の間に、一度も使っていない権限だとしても、権利としては間違いなく持っている。
王家からの要請があれば、動く義務があることも事実だ。
役人として不正を斬るという姿が、怠け者のピーターから想像がつかないとしても、それは問題ではない。
公に監査を宣言されれば、クレインに拒否権は無かった。
しかし戸惑いがちに、ただ一つだけ物申すなら――
「どうして今、このタイミングで?」
極限まで効率化したとは言え、今はお家騒動の真っ最中なのだ。
そんな場合でないことは誰の目にも明らかであり、監査を宣言した本人も分かっている。
とした上で、ピーターはアレスを横目で見た。
「第一王子殿下からの、要請でございますからなぁ」
ならば尚更、クレインには意味が分からない。
共に作戦を立てたアレスならば、内情を知っているはずだからだ。
ラグナ侯爵家の帰路である北西を気にしつつ、敵が攻め込んでくる北東に変化が無いかを見張りつつ、複数のテロが起きた領都の仕置きが待っている。
そして領地の中心部で起きた事件以外は、少なくとも数日すれば落ち着くだろう。
だからこそ、よりにもよって今、立ち入り調査を決行した理由が分からなかった。
「監査の最中は、執務室から出てもらう。つまり今日の仕事は中止だ」
「そうは言ってもな……」
アレスが未だにアースガルド家を警戒していたのなら、調査に入る最大の好機ではある。
しかしクレインを疑うような段階は、とっくの昔に通り過ぎていた。
手を止めさせて、彼が得る利益など無い。
だからこそ、いつも通りの仏頂面で、強引に仕事を止めてくる意味が分からないのだ。
というよりも、意図が掴めないというのが正直なところだった。
「重要そうな案件は、私が直接確認する」
「いや、まず説明をだな――」
事情の説明を求めたクレインに対し、アレスは「話すことは何も無い」と言わんばかりに、邪険に手を振った。
「ええい、私が代わりを勤めようというのだ。四の五の言わずに、さっさと行ってこい」
「行ってこいって、どこに?」
「……さてな、私は知らぬ」
話はそこまでだ。クレインはアレスに背中を押されて、廊下に追い出されてしまった。
質問も反論も許されなかったので、クレインは背後で閉められたドアを振り返って、一人でぼやく。
「何なんだ? ピーターもある程度は裏側を知っているし、代わりにやってくれるのは嬉しいけど……」
ここまで強引に追い出されれば是非もない。
クレインは頭をかきながら、一抹の不安を覚えながら呟いた。
「アレスにも考えがあるんだよな、多分」
とは言え、ここから何をどうしろと言うのか。
それが率直な感想だった。
職務の停止を命じられた以上、少なくとも今日は仕事ができない。
執務室に戻ることもできず、当て所なく歩き始める――が、その足はすぐに止まった。
「クレイン様」
「ちょっとお時間――いいですよね?」
廊下には妻が二人、雁首を揃えて待ち構えていたからだ。
いや、この場合はむしろクレインの方が雁だった。
「え、ああ、うん」
「では、参りましょうか」
「……どこに?」
アレスという勢子に追い立てられて、のこのこ廊下に出てきたクレインは、まんまとフリーの身柄を攫われることになった。
◇
ろくな説明も無いまま執務室を追い出されたクレインは、そのまま屋敷の南側にあるテラスに連れ出された。
ここは午後の休憩などで、お茶を楽しむ際に使う場所だが――
「おう、お疲れ」
促されるままに来てみれば、既に軽食と菓子が並んでいた。
用意をしていたのはチャールズだ。彼はティーポットを片手に、気軽に手を挙げる。
「ああ、そういうことね」
「まあ、そういうことだな。一回休みだ」
過度に働いている家臣がいれば、チャールズをけしかけて強制的に休みを取らせる施策を取っていた。
ランドルフは対象外と思っていたクレインだが、よくよく考えれば自分もそうだ。
どこか他人事のように考えていると、横に座ったマリーとアストリからも、それを指摘される。
「ねぇクレイン様、次のお休みはいつにしようと思ってました?」
「休み……休みか」
「ご予定はありませんでしたよね?」
「うん、まあ」
普段から働き詰めではあったが、最近では特にそうだ。一段落つくであろう再来週くらいまでは、少しも休まないつもりだった。
つまり、唐突な監査で仕事を中止させられたのは、普通に休めと言ったところで、何くれとなく理由を付けて働くと思われていたからだ。
「茶番だなぁ、まったく……」
「気遣いだろ? ありがたく受け取っておけよ」
苦笑いをするクレインの前に配膳を済ませ、お膳立てを終えたチャールズは、ウィンクを残して颯爽と身を翻した。
「それじゃ、夫婦水入らずでごゆっくり」
敢えて言わなくてもいいだろうにと、また苦笑したクレインではあるが、実のところ彼は、妻との会話内容に困っていた。
「その……」
避難させている間に事件を収束させたが、その間に何人も処刑しているのだ。帰ってきたばかりではあるが、二人も既に顛末は知っているだろう。
しかしマリーとアストリには情報を共有していなかった。だから近々で話そうとは思っていたまでも、どう声を掛けるかは迷っていたところだ。
「そうだな……。えっと、元気だった?」
そのため、唐突に訪れた茶会の席での第一声は、やや的を外れた言葉になった。
「お休みは満喫できましたよ」
「そうですね。別荘で不自由はありませんでした」
呼ばれた思惑は何となく分かったが、この二人がどういう感情を抱いているのかは分からない。
そもそもアレスとの間で、どんな打ち合わせがあったかさえ、まだ把握していないのだ。
何をどれだけ知られているか分からない、相手が一方的に情報を持っている状況は久しぶりだ。
ましてや家族に後ろめたく思うなど、何年ぶりになるだろうか。
「そ、そうか。それはよかった」
さて、どう話そうかと思案していると、唐突にマリーがクレインの眉間を人差し指で突いた。
指の腹でぐねぐねと額を擦りながら、彼女は言う。
「ほらまた、すぐ眉間に皺を寄せる」
「え? 本当に?」
「難しい顔をしてますよ」
「そうか……いや、久しぶりに会えて嬉しいとは思っているんだけど、何というか……」
クレインとて別に不機嫌ではない。
むしろ二人が無事に帰ってきて、安心していたところだ。
しかし今や、すっかり考え込む癖ができている。だから無意識で険しい顔になることも増えていた。
「あれこれ考えすぎなんですよ、クレイン様は」
「あたっ」
オマケに指でつんと突き放し、マリーはそっぽを向いた。
クレインはおろおろしたが、次は左に座るアストリが、頬を摘んでくる。
「な、何を」
「いえ、何でも」
なくはないだろう。アストリは礼儀正しいので、何もなければクレインの頬を摘んだりはしない。
そういえば、最後に似たようなことをされたときも、似たような会話をした気がする――と、遠い昔を思い浮かべたクレインの前に、すっと顔を近づけてアストリは言う。
「何でもありませんよ?」
「そ、そう?」
「ええ」
つーんとした態度のアストリなど初めて見た。
マリーは右にそっぽを向いているし、顔を離したアストリは、片手でクレインの顔を摘みながら遥か彼方の雲を見上げている。
しかも今度は、なかなか放してくれない。
「えっと」
「だめですよ」
「はい」
何がだめなのかは聞けない。ただ肯定の言葉を吐くだけだ。
しばらくそうしていると、マリーがカップを空にした辺りでようやく解放された。
「まあ、飲んでくださいよ」
「……いただこうかな」
結婚を機にメイドを辞めたマリーだが、手つきは身体が覚えているのか。
否、これは、「まあ飲め」という威圧付きの酒と変わらない。
立ち上がって給仕をしたマリーは、座るクレインの顔を覗き込んで言う。
「どうですか、お味は」
取り敢えず飲んではみたが、分かるはずがない。
だがクレインは、曖昧に頷いた。
するとマリーはティーポットを置いてから、両手を腰に当てて、前屈みになって言う。
「……まあ、今回はこの辺りにしといてあげましょう。今回は」
マリーはひょいと手に取った焼き菓子を、ぱくっと口に入れる。
むくれて膨らんでいた頬に、お菓子が入って更に膨らむ。
リスみたいだな――と言えば怒られるのは分かっているので、クレインはやはり曖昧な表情を維持した。
すると今度はアストリが、つんつんと、クレインの横腹を突く。
「反省していますか?」
何を、とは言わない。お互いにだ。
ただバツが悪そうな顔で、クレインは弁明する。
「悪かったよ。でも、危ないことからは遠ざけたかったんだ」
これは本心だが、しかし、何も分かっていないという顔をされた。
呆れながら、彼女たちは言う。
「私たちだって、それは分かってますよ」
「分かった上で……というお話ですね」
だがクレインとしては、マリーやアストリの死に目に会うくらいなら、限りない自分の命を消費したいと思っている。
「事前に知らせられないこともあるんだ。特に今回みたいな、汚い争いのときは」
彼女たちには綺麗なものだけを見て、美味しいものだけを食べて、いつでも健やかに、笑っていてほしい。
それがクレインの願いではあったが、マリーは首を横に振った。
「そりゃあ、お貴族様ですからね。利権とかいうのもあるでしょうし、妬まれることとか、お命頂戴って場面も……あるとは思います」
そこで言葉を区切り、紅茶をぐいっと呷ってからマリーは凄む。
「でもこっちだって、そんなことは分かった上で、プロポーズを受け入れてるんですよ」
偉くなるほど、命を狙われる機会が増える。上り調子のお家なら尚更のことだ。
だから身の危険という意味での覚悟なら、とうに決めてある。
むしろマリーが結婚を悩んだ理由は、身分を超えた婚姻による、価値観の違いについてだ。
クレインの価値観に合うのかどうか。はたまた自分が貴族的な考え方に順応できるかどうか。
それは礼儀作法や教養、マナーなどよりも、よほど重要なことだった。
「恥じてください。乙女にここまで言わせたことを、それはもう存分に恥じてください」
「えっと……ごめん?」
「なんですか、もう。煮え切らないお返事ですね」
こんな話をすると思っていなかったのだから、さもありなん。
クレインは事前準備ができないことにはとことん弱い。
しかし、いつでも自分だけが全てを知っていて、何でも経験済みで、常に先回りする関係は求めていなかった。
だからこれは、クレインの望んでいたことでもある。
隠し事を妻に叱られるというのも、新鮮な体験ではあった。
家族とこんな話ができる日がくるなど、生存を決意した頃には、想像もしていなかった。
そんなことをぼんやりと考えていると、今度はアストリが真面目な顔で言う。
「幸せを分かち合うだけでなく、苦難や困難を共に越えていく……それが家族だと思います」
つまんだり、つついたり。普段とは違う気安いスキンシップをやめて、アストリはクレインに寄り添った。
彼女は上背の高いクレインを少し見上げながら、柔らかく微笑む。
「だから、なるべく隠し事はしないでください。私たちも、一緒に悩むことはできますから……ね?」
生き別れになる直前にも、似たようなことを言われたはずだ。まったく自分も成長していない。
そう思えば情けなくもあったが、同時に、クレインは嬉しくもあった。
「大体、自分の家でこんなことがあって、隠し切れるはずないじゃないですか。どうせ伏せるなら、もっと上手く隠してくださいよ」
「そうですね。もしこの状況を、私たちが見落とすと思われていたのなら……流石に無理があります」
確かに自分の立案は穴だらけだ。今後も失敗はしていくのだろう。
しかしこの失敗に、怒りや悲しみは無い。
縁がありつつも、何度も死に別れた。そんな人たちが、今は自分を家族として認識しているのだ。
こうして叱られているだけでも、幸せなやり取りだった。
殺意と害意に付きまとわれて、焦燥を抱えながら一人旅をしていた頃と比べれば、天国でしかない。
「日常っていうのは、こういうことだよな」
守りたいのは、こういう日々だ。
呟き、小さく笑う。
それを見たマリーは、指を指しながら立ち上がった。
「あーっ! 何を笑っているんですか!」
「私たち、怒っていますからね?」
領地を取り巻く環境は依然として厳しく、まだまだ険しい道は続く。
それでも、こんな痴話喧嘩が続けられるなら、自分はいくらでも命を懸けられるだろう。
クレインはそう確信しながら、言い募ってくる二人を微笑ましく見ていた。
「ああ、分かってる。分かってるよ」
当面は機嫌を取るのが大変だ。などと思いながら、彼は緩い表情のままお叱りを受ける。
緩い日差しと涼やかな風の中で、束の間の休息時間は過ぎていった。
次回は8/31(土)の更新予定です。




