第百六話 逃亡者二人
「やむを得ないか。手旗信号、用意」
ビクトール一行が転回してから数分経つと、アレスたちが乗る馬車が見えてきた。彼らは南から北西に向けて大きくカーブした、見晴らしがいい街道を進んでいるところだ。
しかしその背後には、北へ向かう商人のものと思しき荷馬車が続いている。
「伝達文はいかがしますか?」
「作戦の3番を発動。用意に入れ」
ビクトールは御者に指示をすると、レスターの他に同席していた武官と共に、用意を整えていく。
これから始まる軽い運動に備えて、彼らは袖を捲った。
「一番大きく曲がる地点に、差し掛かった瞬間を狙う。こちらが速度を合わせてくれ」
「何をされるおつもりですか?」
「レスター君には怒られそうだから、あとで説明するよ」
全ての作戦を把握しているのは、ビクトールとブリュンヒルデだけだ。
何があるのかと訝し気な顔をするレスターを脇に置き、彼は態勢を低くした。
「秒読みに入ります!」
「さあ、一発勝負だ。失敗したら……あの荷馬車に乗る人間を始末せざるを得ないからね。情報漏洩を防ぐためにも、確実にいこう」
街道には十分な広さがあるが、馬車同士がすれ違う時には速度を落とす。
そして曲がり角では特に、衝突に注意がいる。
互いに減速した馬車は十分な距離を保ったまま接近するが、彼らが横並びになる直前に――同席していた武官が勢いよく戸を開いた。
「殿下、失礼いたします」
「お、おい、何をするブリュンヒルデ! おい!」
ビクトール側が戸を開くと同時に、ガードナーがアレス側の馬車の戸を開いた。
人目がある以上停車はできないので、一計を案じた結果がこれだ。
「よし、投げてくれ」
「畏まりました」
「っおお!?」
ブリュンヒルデがアレスを横抱きにして、すれ違いざまにビクトールの馬車へ放り込む。
積み荷の受け渡しをするように放り投げられたアレスが、ビクトールに受け止められてからすぐに、素早く戸が閉められた。
「やあ、いらっしゃい」
第一王子が乗っているはずの馬車は、中身を途中で消失させながら、更に北へ向かっていく。
後方の荷馬車から見て、死角から死角への受け渡しだ。仮に後方の馬車が追手であろうと、民間のものであろうと目撃証言には乗らない。
隠蔽そのものは上手くいったが、問題は残されたアレスの機嫌だった。
「……貴様、殺すぞ」
「仕方がないじゃないか、君らの後方に人がいたのだから」
何も無い街道のど真ん中で馬車が停車して、人が乗り降りしているのも奇妙な話だ。
仮に後方の荷馬車に乗っていたのが善意の商人で、口封じに成功したとしても、取引先に商品が届かないなどの――より目立つ問題に発展しかねない。
そしてアレスが自主的に飛び移れればいいが、躊躇して失敗されるよりも、確実に済まそうとした結果がこれだ。
しかしレスターは当然の如く怒り、眼鏡の位置を調節しながらビクトールに詰め寄った。
「ビクトール殿! 一体どういうことですか!」
「まあまあ、抑えて抑えて。これが一番穏便に済む方法だよ」
人生で一、二を争う雑な扱いを受けたアレスも憤慨しているが、乗っている馬車を入れ替えて敵の目を欺く作戦だとは理解できる。
理性と怒りが喧嘩した結果、暴れることはせず、悪態をつくに留まった。
「一国の王子を馬車から馬車へ放り投げるのが、穏便か。貴様は一度、医者に頭を診てもらえ」
「はは、これは手厳しい」
不機嫌な猫のように気が立っているアレスだが、拗ねている場合ではないとも自覚している。
憎まれ口を続けるよりも先に、聞くことがあった。
「もういい。……で、これからどうする気だ」
「出発地点の隣町に戻るよ。そこから先は船旅さ」
王子が北に向かったことは、遠からず敵勢力に伝わる見込みだ。なので偽物の馬車を方々に向かわせながらも、実際には河川を利用して、船で移動するというのが撤退策のメインだった。
「なるほどな。まずは南へ向かうつもりか」
「君が南方に縁を持たないことは相手も知っているだろうし、僕だって南方面には疎いからね。それこそ目は向かないだろう」
アレスはラグナ侯爵家が仮想敵だと喧伝していたのだから、暗殺者も当然、北から送られたものと見ている――これが敵方の視点だ。
それを逆手に取り、灯台下暗しを狙って北に潜伏するという作戦は、考えられなくはない。
そのため捜索の優先順位はまず北方、次点でアースガルド領を含めた東方だ。他方面への捜索で時間を浪費させれば、南へ向かったことが知られても手遅れとなる算段だった。
「宿に用意してある影武者と君を入れ替えてから、この馬車はレスター君に任せて王都に向かわせる。作戦はそんなところかな」
北部での捜索が空振りした頃に、アレスが王都に出戻りしたという噂をもう一度流すことで、更なる混乱と遅延を狙うという目論見もあった。
そのため影武者の傍に最側近のレスターを侍らせて、適度に露出させることで、誤情報に信憑性を持たせるのが次の段階だ。
これらは全て目晦ましでしかないのだが、アレスが船に乗った事実を隠すためだけに、ビクトールはやりたい放題にやっていた。
「ふん、貴様のことだ。まだあるだろう」
「そこは人の手を借りるつもりだから、僕が直接指示を出すのはここまでかな」
無駄な時間を使わせる方策は、これでもかと用意されていた。
しかし全てを懇切丁寧に説明する必要も無いだろうと、彼は結論を言う。
「ともあれ北と中央を優先すれば、東の優先度は二の次で、南と西は更に落ちるはずさ」
「だろうな」
そもそも現状では、南方には敵の影響力が及んでいない。南部のヘルメス商会はヨトゥン伯爵家からの締め上げを食らった後に、スルーズ商会からの敵対買収で消滅しかけているからだ。
つまりヨトゥン伯爵家の勢力圏に到達した段階で、ほぼ完全に逃げおおせたことになる。
「さて、ここからはレスター君が狙われる番だ。命懸けの任務だが、覚悟はいいかい?」
「……王宮に火の手が上がった瞬間から、覚悟など決めてあります」
「ならよし、新しい手順書を渡しておくよ」
レスターにも仮の役割は振られていたが、実際には囮として、追跡者たちの目を引くことが役目だ。
目撃されるための名目や、発見された後に何をすべきかが書かれた指示書を受け取ると、彼は憮然とした表情で読み込み始めた。
船の用意は当然のこと終わらせてあるため、半日も稼げれば十分過ぎるくらいだ。
ここまで進めば、身の安全は確実ではあった。
「危険があるとすれば、船に乗るまでの間か」
「そうだね。逆に言えば乗船した時点で、ある程度の安全が担保されると思うよ」
側近のレスターを囮に使い、同じく忠誠心が篤いブリュンヒルデも、アレスが不在になった馬車の護衛に回すことになった。
彼らは戦闘に巻き込まれる可能性が高く、危険な任務に就くことになる。
しかし自らが窮地に陥るほど主君が安全になると見て、誰も異議は挟まなかった。
遂行中の作戦と、自らを取り巻く状況を大筋で把握したアレスだが、しかし手放しに安堵はしない。
あくまで慎重な姿勢を崩さずに、彼は再度尋ねた。
「わざとらしく仰々しい策だが、大丈夫だろうな?」
「決定的な情報も精査の時間もないから、今回は有効だよ。不届き者には情報の海に溺れてもらおう」
北方面に逃げたと偽るためだけに、アレスの到着を前提とした歓待の用意を、ラグナ侯爵に整えさせている。
実働部隊も動かしており、ビクトールの影響が及ぶ範囲では、王都の貴族からも協力が得られた。
それら全てを放って南に向かうというのだから、アレスからするとビクトールらしい作戦と言う他はない。
「相変わらず小賢しい奴め。弄ばれる人間がこれ以上増える前に、完全に隠居するのが世のためだ」
「そうしたいのは山々と言いたいが……クレイン君に聞いた印象とは、また随分と違うね」
「奴は特別だ。仮に貴様が同じことをしたら、ギロチンを用意してやる」
ビクトール抜きでは最速で逃れる以外の手が取れず、アースガルド領へ到着するまでの道中で、裏切り者の奇襲を受けていた可能性も高い。
指揮官として有能なことも認めてはいるが、しかし苛つくものは仕方がなく、アレスの悪態は止まる気配がなかった。
「何にせよ、ようやく友達ができたみたいで良かったじゃないか。クレイン君の頼みだから僕も来たのだし、仲良きことは美しきかな」
「余計なお世話だ」
「あらら、本当につれないね」
影武者と入れ替われれば、作戦はほぼ成ったも同然だ。
現状で無駄に体力を使うことはないと思い、アレスは座席に深く腰掛けてそっぽを向いた。
「まあいいさ。僕らはヨトゥン伯爵家の世話になりながら、南東の街道を使って堂々とアースガルド領に乗り込もうじゃないか」
「待て、最後まで貴様と一緒なのか?」
アレスとしては、危機から逃れられるならばそれに越したことはない。
しかしビクトールの口ぶりから、彼もヨトゥン伯爵家に寄ると想像がつき、彼は顔を顰めた。
「そうだねぇ。随行員が増えると情報漏洩の危険が高まるし、船からは二人旅かな」
「……チッ」
「分かったよ。船頭と漕ぎ手も必要だし、もう何人かは連れて行こう」
アレスとしてはビクトールが苦手だ。心の底から、さっさと離れたいと思っている。
しかしここから南へ向かい、更にアースガルド領まで同行するならば、最低でも3週間は行動を共にしなければならない。
だから舌打ちをして、一層不機嫌になったアレスから目を離し、ビクトールは困ったように頬を掻いた。
「教育というものは、やっぱり難しいね。……それ以上に難しい問題も待っているわけだが」
アレス救出の作戦を準備するために、ビクトールは一度北へ戻っていた。
これから始まる大規模な交渉への用意も済ませておいたのだ。
その過程で家族に見つかり、彼自身も追われる身になっている。
「……ま、なるようになるか」
その後、街についた彼らは馬車から降車すると、大きな川のほとりにある船着き場に向かった。
真冬という季節柄、川辺に人の往来はほとんどなく、彼らは閑散とした中で一隻の小舟を借り受ける。
「道中は冷えるからね。防寒だけはしていこう」
「分かっている。毛布を貸せ」
馬車に積んでいた毛布と食料を船に積み込み、これから川辺の村などに寄りながら、4日の船旅が始まるのだ。
護衛の将を伴って小舟に乗り込んだ逃亡者二人は、雪が降る中を南へ向かって漕ぎ出していった。




