第九十話 破滅の行軍
「生き急ぎすぎだろ!?」
王国暦502年1月11日。
東伯軍の侵攻を抑えられず、クレインは死んだ。
そして東伯戦の1週間前に戻り、いつものようにベッドで目覚めた。
食糧を東方面から遠ざけること。分散保管をすること。隠し持つこと。
彼はそれらを順番に試して失敗し、三つの案を組み合わせても失敗していた。
「いやいや……どうして全軍で撤退しないんだよ。どう考えても無茶だろうに」
詰めの作戦以外は成功したので、敵軍後方の補給基地が壊滅し、アースガルド領内の食料を焼き払うところまでは過去と変わらない。
しかし8万人が10日間生活できるくらいの食料は、子爵領の各地に備えてある。
それを把握した東伯軍はどう動いたか。
まずは輸送部隊を含めた歩兵と負傷兵、一部の騎兵など、合わせて1万5000ほどの兵が即座に東へ引き返していった。
次に残った兵力を最速で西進させ、アースガルド軍を強引に撃滅している。
「ピーターの奇襲部隊が出払っているから、敵の数が倍に近いんだ。練度が高いこともあるし、地の利が無くても正面から押せるのはその通りだけどさ……」
同程度の練度でも、兵力が倍あればまず負けない。
加えて東伯軍の兵士は、アースガルド軍の兵士よりも格段に戦慣れしているのだ。
死兵となった勇者たちが猛然と進み、怪我も死亡も度外視して襲い掛かってくれば、多少の用兵で覆せる戦力差には収まらなかった。
「立地は俺たちが有利でも、焼け石に水だったな。相変わらず化け物みたいな軍団だ」
とは言え問題は食糧に尽きる。アースガルド軍を蹴散らしてからどうするのかと、一度敗走して様子を見たクレインは、あまりの力技に引いていた。
体制が崩壊していたので大筋しか判明していないが、領都を陥落させた東伯軍は1000人規模の部隊に分かれて、四方八方に全速で駆け始めたのだ。
「丘陵を越えて、領地北部の備蓄まで奪いに行くのは計算外だって」
東伯軍の手持ち食糧は半日分ほどであり、これが時間的にも行軍距離的にも大きな制約になっていた。
だが東に撤退する部隊は、手持ち物資の大半をその場に残していき、戦闘を継続する部隊が分配を受けている。
これにより領都陥落から略奪までの動きが間に合い、蓄えが復活し、アースガルド領内の各地まで攻撃が届くようになった。
しかし行くも地獄、退くも地獄の策だ。東伯軍にも当然の如く大損害が出ている。
「全軍で補給できる場所が無くとも、大隊を20個に分けて統制が利くなら何とかなるのか。……略奪に失敗して、行動不能になった部隊もあるみたいだけど」
主に集積させたのは領地の北部だが、クレインは東伯軍が補給できないように備蓄を散らした。
これに対するヴァナルガンド伯爵の返し手は、村を陥落させれば養える程度に部隊を細分化し、攻撃を部隊長に委任することだ。
各々が集落を襲い、時には連携しながら、更に数日分の食料を稼ぎつつ南下。
兵力を合流させながら、輸送隊を襲いに行くという戦法が採られた。
ルート上に奪えるものが無く、食糧や飼料がいよいよ尽きたとなれば、相棒とも言える馬まで食して彼らは走った。
強行軍の果てに力尽きれば、その場に置き去りどころか、全ての物資を仲間に引き渡してから脱落するという――攻める方も攻められる方も――破滅に向かう行軍だ。
「もう防衛策は残っていないし、勝とうと思えばそれが正解なんだろうけどさぁ」
急場さえ凌いでしまえば、南方面からの輸送隊を襲って更に食い繋げるので、その間に後方の体制を立て直せるかもしれない。
もしも補給の目途が立たないなら、アースガルド領を荒らすだけ荒らして撤退するだけだ。
戦略上の勝利が可能か不可能かで言えば、確かに可能ではあった。
「……いや、それでも無茶だろ。帰れよ」
王国側の防衛拠点となる、アースガルド領を潰すなら今しかない。その判断はクレインにも分かるが、名門大貴族が捨て身で潰しに来る可能性までは考慮していなかった。
このゴリ押しは一見すると無謀だが、手札を使い切ったクレインからすると最悪の戦法だ。
数と武力と暴力による正面からの特攻が、どんな奇策よりも厄介と言える。
「相打ち覚悟の死兵だなんて、何を考えているんだ。命は一つしか無いってのに」
クレインは処置なしと首を振った。
しかし相手が嫌がることをするのは戦いの基本であり、ヴァナルガンド伯爵はアースガルド家が最も対応に困りそうな手を打ったに過ぎない。
ただ互いの被害が、途方もなく甚大に広がるだけだ。
このタイミングでアースガルド領が陥落すれば王国にとっても大きな痛手となるため、いずれにせよ東側勢力のリターンが大きい戦いにはなる。
「でも知らない土地で、行軍時間を完璧に合わせて再集合か。ここまできたら反則だ」
敵の連帯を確認した上で――そもそもこの状況を処理しても――既にアースガルド側の敗北が確定しているのだから、クレインは頭を抱えていた。
「先々を考えると、荒らされた時点で負けなんだよ。侵入されてから各個撃破しても意味が無い」
領内を余すところなく焼き討ちして東に引き揚げれば、決戦は相当優位に進められるだろう。
1000や2000の死兵と引き換えに、領地が破壊されては割に合わない。
しかも当のヴァナルガンド伯爵は、あろうことか他家の部隊と共に後退している。
反撃に出したピーター隊は主に歩兵なので、大軍勢の中にいる東伯を捉える術など無く、退却中の総大将を討ち取る策も使えなかった。
しかし正面からの戦いでも勝ち目が無いので、着眼点は焦土作戦に戻る。
「領内のヘルメス商会が消滅したから、情報は隠し通せると思ったけど……上手くはいかないな」
根本的な問題は、敵軍に食糧の残高と在りかを知られていることだ。
これで全ての計算が狂い、策謀が無意味になった。
「東伯が独自に密偵を送り込んでいたのは、もう確定でいいか」
ヘルメス商会が消滅してからも情報網が壊滅していないのは、味方が頼りないと見た東伯が自らの手勢を動かしていたからではないか。
そう結論付けると、クレインの中では腑に落ちる。
「ヘルメス商会は北でも中央でも南でもやらかしているから、信用を落としていた。それに、最近まで残っていたのは捨て駒で……別に優秀な人材でもないらしいからな」
敢えて領内の支店に情報を共有して、アースガルド側に悟られる方が悪手だ。
支店の人間どころかジャン・ヘルメスにすら、何も伝えず動いていた可能性が高い。
「密偵を炙り出すか? ……いや、だからそんな多くの物資を隠すなんて無理だし、密偵を全員暴き切るのも無理だ」
いつ入り込んだのかも分からないのだから、移民や出稼ぎで来た人間を、全員調べるのと変わらない労力がかかる。
そこまでやっても間者を見抜けず、調査に漏れが出る可能性が非常に高いので、これは土台無理な作戦だった。
「輸送の足取りを完全に捕捉されている……けど、焦土作戦はやるしかないだろ。これ以外の勝ち筋なんて見えないぞ」
人口が増えた分だけ、残しておかなければいけない食糧の最低ラインが上がった。
そして成功した時の状況を再現するなら、領民が5日食える分しか残せない。
そこまで減らせば高確率で東伯軍は撤退するが、余裕を持って配給を行うなら、最低でも10日分は必要となる。
むしろ今よりも備えを増やしたいくらいであり、作戦は絶望的な展開を見せていた。
「今の半分では絶対に無理だ。在庫がどうこう以前に時間が、時間が足りない」
敵の進軍条件が緩くなり、補給の条件は厳しくなっているのだ。
兵数が増えた上で、防衛設備や装備が改善されているのに――強くなっているのに――どちらの面でも過去より不利な状況に陥っていた。
「でも、領民を減らすという選択肢も無い。その妥協は将来的に首を絞めるはずだ」
ここを乗り越えて1年と数ヵ月も経てば、より大きな決戦が待っていることは確実だ。
敵軍の総兵力が当初の想定よりもかなり上だったので、最高値を出して進む戦略を変えるわけにはいかなかった。
だからこそ、敵が侵攻を思い留まるまで食料を削り、尚且つ領内で餓死者が出るような事態を避けていかなければならない。
過去と同じように対処できると思っていたクレインは、降って湧いた難題を解けずにいた。
「1年後までに用意できそうな兵数は、防衛の場合なら2万を超える。でも、元の流れに戻せば、良くても1万5000くらいになるか」
仮に戦後が今まで通りに進むなら、東側勢力に対して討伐令が下る。
南北からの援軍以外にも、中央貴族の軍をアテにできるだろう。
しかし寄せ集めの弱さは、小貴族連合が証明している。
この戦いに勝ち、最大強化のまま進めることは至上命題だ。
自前の兵をできる限り多く用意し、中心となって指揮を執れる軍を用意しなければ、決戦に勝利できるかは怪しかった。
「残していい食料の数はどれくらいだろう。今後の兼ね合いも考えて調整していかないと……。いや、今の備蓄が俺たちにとっての限界で、ええと……はぁ」
この戦いの結果が、国の行く末を左右しかねない。
事態はアースガルド領の興亡を飛び越えて、国家戦略級の判断を求められているし、少なくとも東伯はその視点で戦略を再構築している。
相手に合わせて考えることが増え、いよいよクレインの処理能力を超えようとしていた。
「最初は3万のラグナ侯爵軍をどうするかって話だったのに、今では東伯と東侯の連合軍……多分20万近い数を相手にしようとしているんだよな、俺」
ここでの勝負はあくまで前哨戦であり、本命の大戦はまだ先のはずだ。
だというのに、盛大に躓いているのだから彼も自嘲した。
「兵を2000人集めるのがいいところだったのに、今では考える桁が1つか2つ違う」
アレスの下に付いて、どう生き残るかだけを考えていた時と比べれば、視点が大きくなり過ぎた。
だがここで正解を導けなければこれより先に進めないし、この戦いに辛勝したところで、後に国ごと滅ぶ未来も見えている。
もう来るところまで来てしまったと、クレインは遠い目をしていた。
「相手の出方は分かったから、他家を動かすことも考えていくべきか」
戦術ではなく戦略単位での立ち回りを検討するが、婚約の話から開戦までの期間に、どれだけの手が打てるかは不明瞭だ。
そもそもクレインは戦術と、戦後の立て直しのバランスを取るので精いっぱいだった。並行して他家との外交交渉まで加えるなら、許容量を超えることは想像に難くない。
「……いやいや本当に、他家と交渉とかさ。どうしてこんな分野まで考えることになったんだ」
王国暦500年4月の時点では何の影響力も持たず、本来の人生では滅びる瞬間までのんびりと生きていた。
生き残るために必要だから頭を回しているが、謀略や戦略の立案など彼の得意分野ではない。
慣れてはきたが根本的に向いていないと再確認して、彼は愚痴を零す。
「そろそろ手も頭も回らないよ、まったく。南伯や北侯は、よくこんな勢力を纏め上げ――ん?」
後半は意味のない独り言ではあった。
だが、呟き続けた言葉の中から、彼は唐突に何かを閃きかける。
綿密な策を立てても活路が見いだせないなら、飛び道具に頼るしかない。
それがどんなに突飛で成功率が低いものでも、失敗した時点でやり直せばいいのだ。
「何か思いつきそうな気が……」
クレインが持つアドバンテージは、ダメ元の作戦でも何度も試せるところにある。
だからこうした小さな発想から生まれた思いつきでも、大きな力だ。
「何に引っかかったんだ? 思い出せ、妙案に繋がるかもしれな――」
「おはようございまーす!」
クレインは腕を組んで考え込んでいたが、悩んでいるうちにタイムアップを迎える。
長考しているうちにいつもの時間となり、いつも通りにマリーがやって来た。
「ああ、おはよう」
「今日はもう起きてたんですね」
思考を中断したクレインは考えが散ってしまったが、ここでまたふと思う。
生存戦略の道筋が立つまでは、彼女の助言によって窮地を脱したことも多かったと。
「なあ、マリー」
「ん? なんです?」
「例えばの話だけどさ」
これも試しだ。もしかすると、今回もいいアイデアが出てくるかもしれない。
そう考えたクレインは久しぶりに、マリーの意見を尋ねた。




