25.愚者の妄想、その終焉
帝都の路地裏。人通りが途絶えた薄暗い空間に、その声は響いた。
ソフィアが弾かれたように振り返ると、そこには以前よりも酷くやつれ、狂気を孕んだ瞳をした男――デリックが立っていた。
「デ、デリック……さん……」
かつての婚約者であり、雇い主だった男。
しかし、その姿は見る影もない。
上等だった服は薄汚れ、目の下には濃い隈が刻まれている。
商会が潰れ、全てを失い、路頭に迷った者の成れの果て。
彼はソフィアを見つけると、にちゃあ……と歪んだ笑みを浮かべた。
「ああ、会いたかったぞソフィア。ずっと探していたんだ」
(探していた……一体……なぜ……?)
自分とデリックはもう無関係なはずだ。
彼ははっきりと「お前は用済みだ」と言い放ち、自分を追い出したではないか。
困惑するソフィアをよそに、デリックが一歩近づく。
ソフィアは路地裏の壁際まで後退った。
逃げ場はない。
「探した……? どうして……」
デリックは、相当に追い詰められている。
ソフィアの目には、彼から流れ出る魔力が視えた。それは泥のように濁り、ささくれ立ち、とてもまともな精神状態ではないことを示していた。
「なぁ……ソフィア。やり直さないか?」
「………………は?」
「そう、そうだよ。全部……お前が商会を出て行ってからさ、おかしくなっちまったんだよ……。つまりさ、お前を連れ戻せば、全部元通りになるってことだろう?」
意味不明だった。
そんなことで、過去が無かったことになるわけがない。
「なぁ、ソフィア……。やっぱお前、家に帰ってこいよ……。お前がいなくなって、商会からクレームが来まくっててさ……。特に、杖だ。みんな言うんだよ。お前のこと。杖は前の方が良かったってさ」
「…………」
(私の仕事は、ちゃんと……お客様に認められていたんだ)
皮肉な形で知らされた真実に、ソフィアは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「どいつもこいつも……。あの元カノ……ええっと、名前は何だったっけな。とにかくあの女より、お前の方が万倍マシだったんだ。俺は気づけなかった。ほんと、間抜けだよなぁ……」
もう、その通りだったとしか言い様がない。
だが、ソフィアにはそんな嫌味を言い返す余裕もなかった。
(怖い……)
ただ、デリックが恐ろしかった。彼の魔力は鋭いナイフのようにも見えたし、おぞましい化け物にも見えた。
今すぐ立ち去りたい。だが、逃げ口を塞がれている。
「なぁ、ソフィア。役立たずのお前を、今度こそ……上手く使ってやるからさ。なぁ……戻ってきてくれよ……」
デリックが、手を差し伸べる。
それはザフール商会へ……あの暗い過去へ繋がる手だ。
しかしその瞬間、ソフィアの脳裏をよぎったのは――帝都で過ごしてきた温かい日々と、優しい仲間たちの笑顔だった。
デリックの手を取れば、今この手にあるもの全てが、失われる気がした。
だから。
「い、嫌……です」
「あ?」
「嫌です……と、言ったんです」
「なん……だと……?」
ソフィアは、はっきりとデリックを……過去を、拒んだ。
たとえ、自分に杖作りしか価値がなかろうと、それでも。
「私は、ここに居たい……ですから」
ソフィアからの拒絶。
デリックは「は、はぁ……?」と間の抜けた声を漏らした。
自分が拒まれるなど、一ミリも疑っていないようだった。
「なんで……お前は、俺の……だろ?」
「……違います。私は、誰のものでも……ありません。私は、ソフィア・クラフトです。貴方の物じゃあ、ありません」
ソフィアはもう、決めたのだ。
帝都に来て、髪の色を変え、整えて……別人になると。
「う、嘘だ……こんなの……嘘だ。ソフィアが、俺のソフィアが、俺のことを拒むわけがない……なぁ……! 何かの間違いだろ!? なぁ!?」
デリックは近づいてきて、ガシッ、とソフィアの手首を強く握った。
「い、痛い……やめて……」
「俺の女だろ!? なぁ……!? 役立たずのお前を一番理解してるのは、俺だろ?! なぁおい! なんで!?」
「嫌っ……!」
パァンッ!
乾いた音が路地裏に響いた。
ソフィアは反射的に、空いた手でデリックの頬を叩いていた。
デリックはソフィアから手を放し、その場にへたり込む。
叩かれた頬を押さえ、彼は呆然としていた。
本当の、本気の拒絶。
自分の所有物だと思っていた女から、まさかここまで拒否されるとは思ってもいなかったのだろう。
「なんだよぉ……なんなんだよぉ……。俺のこと、好きじゃあなかったのかよぉ……」
(何の話をしているの、この人……? そんなこと、一度も言ったことないのに……)
「俺のこと好きだからさぁ……婚約したんじゃなかったのかよぉ……」
(ああ、そう解釈していたの……)
デリックとの婚約は、祖父が決めたことだ。
天涯孤独になるソフィアが寂しくないようにと、懇意にしていた商会の孫息子と結婚させようとしてくれた、それだけの話だ。
「……ごめんなさい、デリックさん」
ソフィアは、静かに告げた。
「私……貴方のこと、好きではありません。今も……ごめんなさい、昔も」
そもそも、デリック自身もソフィアのことを別段愛してはいなかった。
だからこそ、平気で他の女を作り、ソフィアを捨てたのだ。
ようは、どちらもこの婚約に対して、相手に愛情など抱いていなかったのである。
どっちもどっち。いや、婚約している立場でありながら浮気をし、相手を道具扱いしたデリックの方が、遥かに罪深い。
「そんな……馬鹿な……そんな……だって……ソフィアは……だって……俺がいないと……無価値で……俺に依存してて……だから俺のことずっと忘れられないで……失恋を引きずってて……だから……俺が言えばすぐに戻ってきてくれるって……だから……だから……」
デリックは頭を抱え、ガタガタと身体を震わせた。
ソフィアが、商会再建の最後の希望だったのだろう。
自分を愛している(はずの)女に泣きつけば、何とかなると信じていた。
だが、その最後の望みすら、ただの妄想だったと突きつけられてしまった。
ソフィアを手放したのも、そしてソフィアが戻ってこないのも……全ては、自業自得だったのだ。




