11.約束の極光
ソフィアの声が、静寂な工房に染み渡った。
ガンダールヴルは、椅子から立ち上がろうとして、よろめいた。
彼もまた、五日間、ほとんど眠らずにソフィアを見守っていたのだ。
だが、今の彼を支えているのは、目の前の少女への畏敬の念だった。
「見せてもらっても、よいかの……?」
ガンダールヴルが歩み寄ると、ソフィアは震える手で、生まれ変わった杖を差し出した。
しかし、ガンダールヴルはまず杖ではなく、ソフィアの小さな手を、自身の大きな両手で包み込んだ。
その手は、ノミや木材との格闘で傷だらけになり、豆が潰れ、ボロボロだった。
「ガンダールヴル様……?」
「すまなかった。本当に、すまなかったのう……」
老賢者の声は震えていた。
「この老いぼれごときの道具のために、おぬしのような若い職人に、ここまで無理をさせてしまった。……五日じゃぞ。五日間、飲まず食わずで……命を削らせてしまった」
目の前の少女は、明らかに憔悴しきっていた。
極限の集中状態で五日間。体への負担は計り知れない。
普通なら倒れていてもおかしくない状態だ。
「いえ……私は、職人ですから。それに……」
ソフィアは、やつれた顔で、けれど誇らしげに微笑んだ。
「この子が、まだ生きたいって言っていたので」
ガンダールヴルは胸を打たれた。
この少女は、自分の体よりも、杖の声を優先させたのだ。
それはつまり、自分のことよりも、客である自分を――この杖の持ち主である自分のために、全霊を尽くしてくれたということだ。
彼は深く頭を下げ、感謝をにじませながら、ゆっくりと杖を受け取った。
「ありがたく、頂戴する」
ガンダールヴルの指が、白磁色の木肌に触れる。
その瞬間だった。
ドクン。
心臓が跳ねた。
杖から、温かな波紋が流れ込んでくる。
それは魔力ではない。もっと深く、懐かしい、記憶の奔流だった。
ガンダールヴルの脳裏に、鮮やかな映像が浮かび上がる。
――そこは、百年前の景色だった。
若き日のガンダールヴルがいる。
史上最年少で「八賢者」に選ばれ、全属性を操る天才として持て囃され、同時に周囲から疎まれていた頃の自分だ。
誰を見ても見下し、尖りきっていた若者の隣に、一人の女性がいた。
誰よりも優しく、けれど誰よりも厳しく、彼を叱ってくれた最愛の妻。
『あなた、またケンカしたのね。ほんと、馬鹿な男』
『ふん……あいつらが悪いんだ。おれの才能が憎いなら、もっと研鑽をつんで、おれを超えればいいのに。嫌がらせばかりしやがる……まったく不愉快だ!』
『そう……あなた、さみしいのね。強すぎるあなたに、だれも……自分に付いてきてくれないから』
図星だった。
自分の理解者は、妻だけだった。
他者とぶつかるのは、すなわち、他者と交わりたいから。自分を理解して欲しいからだ。
だが、強すぎるガンダールヴルを、誰も理解しようとしてくれない。
自分は一人だ。だから、寂しい。
妻が近づいてきて、自分に何かを握らせる。
それは、新品の杖だった。
『これは……?』
『あなたへのプレゼント』
持った瞬間、ガンダールヴルは理解した。
『なんだ、こいつは。わしの力を吸い取りやがる。これでは、本来の力が発揮できんぞ』
『それでいいのよ。あなたちょっと強すぎるわ。だから……その子に力を吸ってもらいなさいな。それでちょうどいいくらいだわ』
魔力を吸われ、体に倦怠感を覚える。
まるで、弱くなったみたいだ。
『今のあなたは、未熟すぎる。強い力を自分でコントロールできない。だから、この子を携えて、共に……周りと同じところへ降りてはいかが?』
『……ふん。おれに弱くなれっていうのか』
『ええ。そうすれば、誰もあなたをひとりぼっちにしないわ』
妻の言う通りだった。
この杖を使い出したことで、ガンダールヴルは力を抑えることができた。
本気を出せないからこそ、他人を頼り、また他人を育成しようとした。
誰もが、自分を妬み、怖がり、近づこうとしなかった世界が変わった。
妻と、この杖のおかげで、彼の世界に光が差したのだ。
しかし、彼女は若くして流行り病でこの世を去った。
百年という長すぎる月日は、残酷にも彼女の声や笑顔を、記憶の霧の彼方へと追いやってしまっていた。
だが今、杖を通して、彼女の温もりが鮮明に蘇る。
彼女の笑顔が、声が、直接心に語りかけてくるようだった。
意識が、現代へと戻ってくる。
「おお……」
ガンダールヴルは、杖を胸に抱きしめ、膝から崩れ落ちた。
目から大粒の涙が溢れ出し、白い髭を濡らす。
「そうか……お前、覚えとってくれたんか……」
新しい木材になっても、芯材に刻まれた記憶は消えていなかった。
ソフィアの腕を疑っていたわけではない。
だが、杖という物言わぬ道具が、自分の知るものと同じかどうか、それを証明する手立ては思いつかなかった。
しかし、ガンダールヴルは理解した。
杖が見せてくれた、過去の映像を見て確信した。
妻から杖をもらった日の出来事。
それを覚えているのは、世界にたった三人しかいない。
自分、亡き妻……そして、相棒たる杖だ。
自分が忘れてしまった妻の顔を思い出させられるのは、自分が長年連れ添った愛しき魔法杖のみ。
そう、この杖はまさしく、正真正銘、自分の杖だった。
ソフィアは、本当に「あの子」を殺さずに、転生させてくれたのだ。
「ありがとう……ありがとう、ソフィア。わしに、あいつとの日々を返してくれて……」
老賢者の慟哭が、工房に響く。
ソフィアは何も言わず、ただ優しく微笑んでその様子を見守っていた。
◇
しばらくして、涙を拭ったガンダールヴルが立ち上がった。
その瞳には、先ほどまでの悲しみはなく、澄み切った決意が宿っていた。
「外で、振ってみてもいいかな?」
「はい。ぜひ」
三人は工房の裏口から、夜の庭へと出た。
冬の夜空は高く、星が瞬いている。
ガンダールヴルは夜空を見上げ、杖を構えた。
(見ていておくれ。遅くなってしまったが、約束じゃ)
彼は思い出す。妻との最期の約束を。
『いつか、見たこともないような、とびきり綺麗な魔法を見せてあげる』
妻が生きている間には、叶えられなかった約束。
それを今、彼女が残してくれた杖と共に果たす。
彼が選んだのは、初歩中の初歩。
単に明かりを灯すだけの生活魔法、『発光』。
だが、そこに込めるのは、彼が持つ「七属性」全ての魔力だ。
ガンダールヴルは、静かに魔力を解き放った。
声には出さない。
心の中で、亡き妻へ贈る名を紡ぐ。
(――神域級魔法『満天極光界』)
カッッッ!!!!
杖の先端から放たれたのは、天を衝くような極太の光の柱だった。
赤、青、緑、紫、黄金、白、黒。
七色の魔力が螺旋を描きながら、音もなく夜空へと駆け上がっていく。
「うわああ……」
「きれい……」
ヨランダが空を見上げて呟いた。
光の柱は雲を突き抜け、夜空で弾けた。
そして、巨大なカーテンとなって、帝都の空を覆い尽くした。
七色の光が揺らめき、星々と共演する。
それは、彼が妻に見せたかった、世界で一番美しい景色だった。
(軽い)
ガンダールヴルは、自身の掌を見つめた。
これほどの大魔法を行使したというのに、魔力の消費を全く感じない。
負担がゼロだ。
以前の杖は、暴れる魔力を「抑え込む」ためのものだった。
だが、この杖は違う。魔力を「逃がし、導き、歌わせる」ための翼だ。
自分の魔力が、杖と一つになり、世界そのものとリンクしているような全能感。
「届いただろうか」
ガンダールヴルは、空の彼方へと思いを馳せた。
きっと、彼女も笑ってくれているだろう。
「……どうですか? 気に入っていただけましたか?」
後ろから、弱々しい声がした。
振り返ると、ソフィアが壁に寄りかかりながら、嬉しそうに微笑んでいた。
「気に入るどころの話ではない。これは奇跡じゃ。ソフィア、おぬしは……」
ガンダールヴルが駆け寄ろうとした、その時。
ふつり、と糸が切れたように、ソフィアの体が前に傾いた。
「あっ、ソフィアちゃん!?」
「おっと!」
倒れ込むソフィアを、ガンダールヴルが慌てて魔法で受け止め、優しく抱きかかえる。
彼女からは、安らかな寝息が聞こえていた。
限界まで張り詰めていた緊張が解け、泥のような眠りに落ちたのだ。
「よくやった。本当によくやったのう」
ガンダールヴルは、腕の中の小さな職人を、愛おしそうに見つめた。
その手はボロボロで、服も木屑だらけだ。
彼女は名誉も金も求めていない。ただ、自分の仕事で誰かが喜んでくれることだけを願う、純粋な職人だ。
(この子の実力を世間に公表すれば、この子は英雄になれるじゃろう。だが……)
同時に、多くの「欲深い大人たち」が群がってくるだろう。
かつての自分を利用しようとした者たちや、彼女を捨てた者たちのように。
この無垢な才能を、食い物にさせてはならない。
「ヨランダさんと言ったね」
「は、はいっ!」
「わしは、この『小さな宝石』を守りたい。彼女が、彼女らしく笑って、杖を作れる場所を」
ガンダールヴルは、自身の深紅のローブから、黄金に輝くバッジを取り出した。
『帝国立魔法学園校章』。
その中でも、校長である彼だけが持つことを許された、最高権威の証だ。
「これを、あの子の枕元に置いておいてくれ」
「こ、これは……?」
「ただの魔除けじゃよ。困った時、これを見せれば、大抵の輩は黙るはずじゃ」
賢者は杖を握りしめ、眠るソフィアに誓った。
有名にするのではない。
彼女が、誰にも邪魔されず、大好きな杖作りを続けられるように。
この身に代えても、彼女の平穏を守り抜くことを。




