10.八賢者の杖作り
工房の空気は、張り詰めた弦のように鋭利だった。
窓から差し込む光さえも、遠慮がちに床を照らしている。
作業机に向かうソフィアの背中は、ここ数時間、微動だにしていなかった。
彼女が行っているのは、修理ではない。
「転生」させるための、大手術だ。
ソフィアは、ガンダールヴルの折れた杖を万力で慎重に固定すると、拡大鏡を目に装着した。
手には、針のように細いノミが握られている。
まずは、死んでしまった木材の中から、未だわずかに魔力を帯びる「芯材」――杖の心臓部分を摘出しなければならない。
芯材と外殻の木材は、血管と肉のように複雑に癒着している。
少しでも手元が狂えば、芯材を傷つけ、杖の魂を殺してしまうことになる。
カリッ……カリッ。
静寂の中に、微かな音が響く。
ソフィアは、炭化した木材の繊維を、一本、また一本と剥がしていく。
それはまるで、薄紙を一枚ずつ剥ぐような、いや、蜘蛛の巣を解くような、気の遠くなる作業だった。
「……ふぅ」
ソフィアが小さく息を吐き、作業を一瞬止めた。
その隙に、ヨランダが濡れた布でソフィアの額の汗を拭う。
その様子を見守りながら、ヨランダが小声で囁いた。
「ねえ、ガンダールヴル様」
「なんじゃ、お嬢さん」
「くっつけるだけなら、もっとパパッとできないんですの? 強力な接着剤とかで、えいって」
ヨランダが不思議そうに首を傾げると、ガンダールヴルはうなずく。
「そうじゃのう。普通の木なら、それでいい」
「違うんですの?」
「ああ。少し、想像してごらん。例えば、折れた小枝を繋ぎ合わせるとする。おぬしならどうする?」
「そりゃあ、糊でくっつけますわ。アタシにもできます」
「ふむ。では、糊が使えないとすると?」
「えっと、じゃあテープで巻きます」
「テープも使えぬとなると?」
「……えっとえっと、じゃあ……針と糸で……?」
ヨランダが自信なさげに答えると、ガンダールヴルは穏やかに頷いた。
「ふむ、それはおぬしにできるかな?」
「でき……ると思いますわ。木は硬いですけど、まあまあ太いですし」
「では、その木が、針のごとく細かったら?」
「……は?」
ヨランダが目を丸くする。
「針のごとく細い枝を、それより細い針と糸を使って縫合することはできるかな?」
「え、えっと……」
「しかも、木の繊維の一本一本を、ズレなく正確に繋ぎ合わせることは?」
「……できない、というか、不可能ですわ。そんなの、現実的じゃありません」
そう、現実的ではない。
物理的な木材ならまだしも、目に見えない魔力回路の接合など、人間の領域を超えている。
「しかし、あの娘は今、現実にそれをやっておるんじゃよ」
「……うそぉ」
「嘘ではないよ。魔力回路を切り取り、新しい木材へと繋ぎ合わせる作業は、針を、より細い針で縫うような神業じゃ。虚空に絵を描く方がまだ簡単かもしれんのう」
「いや、そっちも無理ですって……」
ヨランダは顔を引きつらせ、改めてソフィアを見た。
彼女は今、ピンセットで摘出した「芯材」を、青く透き通った特殊な溶液に浸しているところだった。
活性化させ、鮮度を保つための処置だろう。
「ソフィアちゃんは、そんくらいヤバいことやれちゃうんですね……」
「うむ……まさに、神業じゃ。あんな芸当ができる職人、ワシの知る限り伝説の『八宝斎』くらいしかおらん」
「はっぽう……さい? 料理ですの?」
「違う違う。伝説の鍛冶師じゃよ。ヴィル・クラフトといって……クラフト? まさか……」
「それ、ソフィアちゃんのお祖父様ですよ?」
「! なんと…… そうだったか……。やはり……ただ者ではないと思っておったが」
ガンダールヴルは驚き、そして嬉しそうに目を細めた。
かつて世界を驚かせた天才職人の技術が、この小さな背中に受け継がれている。
ならば、奇跡も起きようというものだ。
◇
それから、長い戦いが始まった。
芯材の摘出と活性化が終わると、次は新しい「体」となる木材の調整だ。
ソフィアの目は、目の前の老人が秘める膨大な情報を正確に捉えていた。
(なんて……緻密な魔力回路……)
人間の体には、魔力の通り道である「魔力回路」が刻まれている。
回路が複雑であればあるほど、高度な魔法を組み上げることができる。
ガンダールヴルの体には、気が遠くなるほど精緻な回路が、それこそ大迷宮のごとく、全身を駆け巡っていた。
(なんて……魔力量……)
次に驚くべきは、彼の内包する魔力量だ。
それはマダム・グランなど比ではないレベルだった。
底が見えない。
まるで、どこまでも続く深い大海原のように、その魔力の器は広大だった。
迷路のごとき複雑な魔力回路。
大海原のごとき無尽蔵の魔力。
そのどちらか片方を持つ者は、稀にいる。
だが、両方を同時に持ち合わせている者は、そうはいない。
多くの魔力を持っていても、それを使いこなせない者。
逆に、複雑な回路を持っていても、ガス欠を起こす者。
ガンダールヴルという老魔法使いは、莫大な量の魔力を、超高レベルに使いこなす、まさに化け物級の魔法使いだった。
(とんでもない魔法使いだ……)
世間の人々は「八賢者」という肩書きしか見ていない。
だがソフィアは、唯一、彼の実力を「構造」として完璧に見抜いていた。
(とんでもない魔法使いさんの杖。となると、木材はそれに耐えうる……ううん、そのチカラを更に飛躍させる素材がいいはず)
ソフィアは立ち上がり、資材保管庫へと向かった。
そこには、マダムが残してくれた世界中の銘木が眠っている。
ソフィアはその棚の前に立ち、ブツブツと呟いた。
「……芯材は、七種類だった。不死鳥を含めた七つの芯材を組み合わせて作った、オンリーワンのもの……それほどまでにたくさんの芯材を使ったのは、きっとガンダールヴル様の魔力が七種類あるから……となると木材も全ての属性を、余すことなく通すものがいい……」
独り言を聞いたガンダールヴルが、戦慄の表情を浮かべた。
「……ガンダールヴル様、どうしたんですの?」
「……あのお嬢さんは、凄まじい。魔力の属性を、なんの道具も使わずに見抜いておる」
「? 魔力に属性なんてありますの?」
「ああ。人には得意な属性というものがある。詳細は省くが……とにかく、魔力には色が付いておるのじゃ。わしの魔力は七色。地、水、火、風、光、闇、そして無。その全てを使う」
「へー……それってすごいですの?」
「わし以外に七つ持つものはおらんよ。じゃが、一番凄いのはあのお嬢ちゃんじゃ。魔力の属性は、専用の高級魔道具を使って、やっと分かるものなのじゃ。あの子は見ただけで見抜いてみせた」
「……ソフィアちゃんの目が、その高級魔道具と同じレベルに凄いってことなんですの?」
「そういうことじゃ……」
驚き、戦慄する二人など気にも留めず、ソフィアは木材選びに没頭する。
何本も、何本も、枝を取り出しては首を捻る。
やがて、一本の枝の前で手が止まった。
「うん……これだ……『極光樹』! これしかない!」
ソフィアが手に取ったのは、不思議な枝だった。
樹皮は白磁のように滑らかだが、見る角度によって、青、紫、緑と、オーロラのように色彩が揺らめいて見える。
全ての光を内包し、全ての魔力を透過させる、幻の霊木だ。
「完成したの、ソフィアちゃん……?」
だが、ヨランダの問いかけは、ソフィアの耳には届いていなかった。
彼女は枝を宝物のように抱え、作業机へと走っていった。
「杖の木材が選び終わっただけじゃよ。ここから、枝を加工する作業に入る」
「……それってどれくらいかかるんでしょうねえ」
「わからぬ……職人次第じゃ。ただ、あの子はこの枝を選ぶのに、半日以上かけておったからの」
「……じゃあ、加工は……もっと……」
「うむ……覚悟する必要はあるのう」
「このままじゃ……あの子倒れちゃうわ!」
ヨランダは、キッチンへと向かった。
そしてパパッと、手軽に食べられるものを作って、ソフィアの元へ戻る。
「ソフィアちゃん、お口あーん!」
「……ん」
ヨランダが差し出したサンドイッチを、ソフィアは視線を外さぬまま機械的に噛み砕き、水で流し込む。
「ファイトですよっ」
「……ん」
◇
その後も作業は続いた。
睡眠も、作業の区切りに机に突っ伏して数十分眠るだけ。
ヨランダが何度も「休んで」と声をかけたが、ソフィアは首を振った。
一度完全に手を止めてしまえば、繋ぎかけた「魂」の糸が切れてしまう。
そんな強迫観念めいた集中力が、彼女を突き動かしていた。
そして。
「……もう、五日じゃ」
工房の椅子に座り込み、付きっきりで見守っていたガンダールヴルが、心配そうに呟く。
「凄まじい集中力じゃ……。人間技ではない」
「ソフィアちゃん、顔色が……」
ヨランダが不安げに見つめる先で、ソフィアの頬は少しこけ、目の下には隈ができている。
だが、その瞳の光だけは、衰えるどころか、星のように鋭く輝いていた。
彼女の世界には今、杖と自分しか存在していないのだ。
カチッ。
静寂の中で、何かが嵌まるような、小さな音がした。
ソフィアの手が止まる。
張り詰めていた糸が緩むように、彼女は深く、深く息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。
「……できました」
その声は掠れていたが、確かな達成感に満ちていた。




