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6. 最後まで走れる者

スタートエリアの空気は、いつも薄い。

実際の気圧の話ではない。人間の感情が過剰に詰め込まれ、呼吸の余地が削られている感じがする。ワックスの匂い、雪を踏み固める音、選手同士が互いを見ないふりをする視線。ここには、言葉にならない情報が溢れている。

ストックを雪に突き、板のエッジを確かめる。

雪は締まっているが、完全な硬雪ではない。気温は低いが、前夜の微かな降雪が表層を柔らかくしている。上りでは踏み抜きやすく、下りではスピードが乗りすぎる。

今日の雪は、正直だ。無理をすれば、必ず返ってくる。

心拍計の表示を一度だけ確認し、すぐに視線を外す。

数字は、あくまで補助だ。

雪の上では、身体の内側の声のほうが正確なことがある。

周囲を見る。

誰もが、静かに“獲物”を探している。

クロスカントリーは集団競技ではないが、孤独な競技でもない。風を避けるため、相手の背中を使う。相手の呼吸を聞き、疲労の兆しを読む。

これは競争であると同時に、共同作業でもある。

号砲が鳴った瞬間、雪原が一斉に目を覚ました。

ストックが突き刺さり、板が雪を切り裂く。音が波のように重なり、前へ前へと押し出される。

スタート直後は、速すぎる。

誰もが位置を取りに来る。ここで無理をすると、後半に確実に沈む。それを全員が知っていて、それでも踏み込む。

文明化された競技の、最初の矛盾だ。

僕は前に出ない。

風を受けない位置を選び、心拍を抑える。呼吸は深く、長く。肺の底まで空気を送る。

祖母の言葉が、ふと脳裏をよぎる。

――急がないことと、急ぐことの区別。

ここは、急がない。

コースは緩やかな起伏を繰り返す。

上りではピッチを刻みすぎず、脚の反発を使う。下りではストックを畳み、肩の力を抜く。雪に身体を預ける。

クロスカントリーの戦術は、力の温存だ。

最後まで走るために、どこで“走らないか”を決め続ける。

中盤、集団が縦に伸び始める。

疲労が、個人差として現れる。

背中の揺れが大きくなる選手、ストックが雪を滑る選手、呼吸音が荒れる選手。

誰もが必死に隠しているが、身体は正直だ。

一人、転倒する音がした。

乾いた衝撃。板が絡み、身体が雪に叩きつけられる。

競技では一瞬のアクシデントだが、生活なら致命傷だ。

僕は一瞬だけ視線を向け、それから前を見る。

助けられない。

それもまた、雪の上の現実だ。

終盤に差し掛かる頃、胸が焼ける。

肺が狭くなり、息を吸っても吸いきれない感覚。脚は鉛の塊になり、意志と動きの間に遅延が生まれる。

ここからが、本当のクロスカントリーだ。

頭の中で、あの言葉が繰り返される。

「最後まで走れる者が勝つ」

スポンサーのコピー。

実況向けの分かりやすい言葉。

僕はそれを、一度、ばらばらに分解する。

最後まで走れる者。

それは、最初から全力を出した者ではない。

雪と対話し、自分の限界を知り、越えないことを選び続けた者だ。

それは、勝者の条件である前に、生存者の条件だった。

祖先の記憶が、身体の奥から浮かび上がる。

吹雪が来る前に、森を抜けなければならなかった人々。

夜が落ちる前に、帰る場所を見失わないよう、無理をしなかった人々。

彼らは“勝たなかった”。

けれど、生き延びた。

僕は、自分に言い聞かせる。

追うな。

逃げろ。

ここで言う逃げるとは、諦めることではない。

生きる可能性が高い選択を、迷わず取ることだ。

ゴール前、観客の声が壁のように迫る。

音が圧力になる。視界が狭まり、時間感覚が歪む。

僕はただ、前に身体を投げ出す。

技巧も戦術も、最後は消える。

残るのは、ここまで自分を連れてきた判断の積み重ねだけだ。

ラインを越えた瞬間、すぐには分からない。

勝ったのか、負けたのか。

膝に手をつき、雪に息を吐く。

白い息が、白い世界に溶ける。

その瞬間、胸の奥にあった緊張が、静かにほどけた。

結果は、後からついてくる。

だが、いま確かなのは一つだけだ。

僕は、最後まで走れた。

それは、勝利以上に、祖先から受け取った技術を裏切らなかったという感覚だった。

クロスカントリーは、文明によって競技になった。

だが、雪の上に立った人間の身体は、今も昔も変わらない。

生き延びるために、判断し、配分し、走る。

最後まで走れる者。

それは、最後まで“生き方を間違えなかった者”なのだ。

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― 新着の感想 ―
レース描写の緊張感と、これまで積み上げてきた「生存としての速さ」という思想が完全に重なり、言葉がそのまま身体になっていました。「追うな。逃げろ。」の再定義と、勝敗を越えた着地が美しく、この物語全体を静…
レース描写の緊張感と、思想の融合が圧巻。 速さを競いながら、「どこで走らないか」を選び続ける戦い。 転倒した選手に一瞬だけ向けられる視線―― 競技と生活の違いが、ここで痛切に浮かび上がります。 「逃げ…
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