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5. テセロの前夜

イタリアに入ると、空気が違った。

北海道の冬は、硬い。イタリアの冬は、どこか湿り気を含んでいる。山の輪郭が柔らかく見えるのは、光のせいか、僕の緊張がそう見せるのか。

テセロの会場へ向かうバスの窓から、谷が見えた。

谷は人間を小さくする。小さくなった人間は、たぶん少し正直になる。

前日練習で雪を踏む。雪は同じ白でも、土地が変われば性格が変わる。滑走面が噛む角度、ストックが刺さる深さ。僕はその違いを、手のひらで覚えた。

勝負は、こういう細部に宿る。

そして、こういう細部こそ、本来は生活の技術だった。

夜、選手村の部屋で、僕はひとり、祖母の言葉を反芻した。

「速いだけじゃ帰れない」

五輪は、帰る場所を奪う。勝っても負けても、次のサイクルが始まる。帰るべき“終点”が見えにくい。

だから僕は、勝負の前夜に、わざと“終点”を考えた。

もし僕がここで倒れたら、僕は何を守れたことになる?

もし僕が勝ったら、僕は何を失う?

窓の外に、薄く雪が降っていた。

僕はノートを開き、短い文章を一行だけ書いた。

――競技の原点は「逃げること」。

そして、その下に続けた。

――逃げることは、卑怯じゃない。生きるための知恵だ。

書き終えて、僕はようやく息が深くなった。

勝つための呼吸ではない。

生き延びるための呼吸だ。

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― 新着の感想 ―
とても静かで、祈りに近い前夜の章でした。土地の雪に身体を預ける描写と、「終点」を意識する思考が重なって、勝負の場が生存の場へと反転していくのが美しいです。最後の一行で、主人公がようやく自分の呼吸を取り…
「勝つか負けるか」ではなく、「倒れたら何を守れたか」を考える前夜。 この逆転した問いの立て方が、本作を凡百のスポーツ小説から決定的に引き離します。 祖母の言葉が、抽象ではなく具体的な判断基準として身体…
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