4. 競技が文明になるとき
冬の遠征前、代表合宿が始まった。
練習は効率で構成される。心拍ゾーン、乳酸値、回復のプロトコル。
やるべきことは明確で、迷う余地は少ない。迷わないために、世界を狭くする。狭くした世界の中で、僕らは強くなる。
夜、僕はコーチに話しかけた。
「クロスカントリーって、いつから“勝つ競技”になったんですか」
コーチは一瞬、僕の顔を見た。測るような目。
「最初からだろ。競技なんだから」
「でも、競技になる前がある。スキーは生活の道具だった」
「だから何だ」
その言い方は責めているのではなく、単純に“優先順位”の確認だった。今の僕らが相手にしているのは、過去ではなく、五輪の雪だ。
僕は言葉を続けた。
「速さを競うようになって、意味が変わった気がします。文明化したっていうか」
コーチは苦笑して、ボトルの蓋を閉めた。
「文明化? それ、悪いことか?」
僕は答えられなかった。悪いと言いたいわけではない。だけど、良いと言い切る勇気もなかった。
コーチは言う。
「お前は真面目すぎる。スポーツはスポーツだ。勝てばスポンサーもつく。勝てば次の世代にも道ができる」
正しい。正しいが、正しさは時に、問いを押し潰す。
部屋に戻って、僕はミラノ・コルティナの競技日程を眺めた。会場はイタリアのテセロにあるクロスカントリー会場。日程表には、距離、種目、開始時刻が整然と並ぶ。
「整然」――それが文明の美徳だ。
整然と並ぶことで、競技は世界のどこへでも輸出できる。意味を切り揃えることで、誰もが同じルールで勝敗を語れる。
でも、切り揃えた瞬間に零れ落ちるものがある。
雪の恐ろしさ。迷うこと。道具のありがたさ。帰ることの切実さ。
それらは、競技の言葉に翻訳しづらい。
僕はふと、別の冬の競技のニュースを思い出した。スキー登山という、山を登り、滑り、また登る競技が五輪で扱われる際、伝統の長い耐久的な形ではなく、短い形式が採用されることへの議論がある、という報道だ。
「見せるため」に、意味が変わっていく。
それはクロスカントリーだって例外じゃない。テレビに映るのは、苦しさの長さではなく、ハイライトだ。数字にできるものが価値になる。
僕は自分の心拍のグラフを眺めた。
きれいな山がいくつもある。
その山のどこにも、「なぜ滑るのか」は記録されていない。




