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3.祖先の道具箱

祖母の家は、札幌の外れにある。

地下鉄の終点からバスに揺られ、さらに少し歩く。街の音が減り、雪の上に残る足跡の数が目に見えて少なくなるあたりから、空気が変わる。人間の生活が雪に“勝っていない”場所だ。

玄関を開けると、ストーブの匂いが鼻を突いた。乾いた木が燃える匂いと、かすかな灯油の気配。北海道の冬は、屋外では容赦なく身体を削るが、屋内では過剰なほど人を甘やかす。祖母の家は、その典型だった。

「痩せたね」

祖母は、僕の顔を見るなりそう言った。声に責める調子はない。事実確認だ。

「ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

そう答えながら、僕は自分の腹に手を当てた。脂肪は少ない。必要なものだけが残っている感じがする。競技者としては理想的だが、人間としては少し危うい。

食卓には、鮭の粕汁と、根菜の煮物が並んでいた。エネルギー計算をすれば、合宿の食事より効率は悪い。けれど、身体の奥に染み込む感じは、まるで違う。


食べながら、僕は言葉を探していた。

聞きたいことがある。けれど、どう切り出せばいいのか分からない。

競技の話ではない。家族の話であり、血の話であり、もしかすると、語られなかった歴史の話だ。

食後、祖母が急須に湯を注ぐ音を聞きながら、僕はようやく口を開いた。

「曾祖母のこと、もう少し教えてほしい」

祖母の手が一瞬止まった。

それから、何でもないことのように、戸棚の奥へ向かった。

「これ、久しぶりに出すね」

小さな木箱だった。長い時間、開けられていなかった箱だ。

中には、銀色のボタンがいくつかと、布の切れ端が入っている。布は色褪せているが、縁取りの模様ははっきり残っていた。指でなぞると、驚くほど強い。

「これが、向こうの衣装の一部」

祖母はそう言った。「向こう」とは、北欧のさらに北、かつて曾祖母が暮らしていた土地のことだ。

「彼女はね、スキー選手じゃなかったよ」

祖母は、当たり前のことを言うような口調で続けた。

「当たり前だよな」

僕は笑った。けれど、その“当たり前”を、僕は競技の世界で見失いかけていた。

「彼女にとってスキーはね、靴みたいなものだった」

「靴?」

「そう。雪の上を歩くための、もう一つの足」

祖母は、曾祖母がどんな冬を生きてきたかを、断片的に語った。狩りに出る男たちを見送り、雪嵐の中で帰りを待ったこと。食料を運ぶため、何時間も雪原を進んだこと。道を間違えれば、帰れなくなるという現実。

そこに、勝敗はない。

あるのは、戻れたかどうかだけだ。

「速いかどうかは大事だった。でもね、それは勝つためじゃない」

祖母は、布切れを丁寧に畳みながら言った。

「日が落ちる前に帰るため。天候が変わる前に、森を抜けるため。生きて帰るため」

その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、何かが静かに繋がった。

クロスカントリーの戦術。ペース配分。心拍管理。集団走行。

それらは、競技のために生まれたのではない。

本来は、生存のための知恵だった。


僕は箱の中の銀のボタンを手に取った。冷たい。

この冷たさを、曾祖母はどんな気持ちで握っていたのだろう。

表彰台に立つ喜びはなかったはずだ。

けれど、帰れる喜びは、確実にあった。

「彼女は、日本に来るときも、スキーを持ってきたんだよ」

「持ってきた?」

「そう。板そのものじゃない。感覚をね」

祖母は、そう言って微笑んだ。

感覚。

雪の硬さを足裏で測る感覚。風の匂いで天候を読む感覚。無理をしてはいけない瞬間を察する感覚。

それらは、記録にも映像にも残らない。けれど、確実に受け継がれる。

僕は思い出していた。

幼い頃、理由もなく長い距離を滑れたこと。

疲れているはずなのに、「もう少し行ける」と分かった瞬間。

あれは才能ではなかったのかもしれない。

生き延びるための感覚が、競技に転用されていただけなのかもしれない。


帰り際、祖母は玄関まで見送ってくれた。

「速いのは、いいことだよ」

そう前置きしてから、続ける。

「でもね、速いだけじゃ帰れない」

外に出ると、雪が静かに降っていた。

街灯の光が、雪面を均一に照らし、遠近感を奪う。方向を誤れば、簡単に迷う景色だ。

僕は立ち止まり、深く息を吸った。

競技者としての僕は、ゴールを目指す。

けれど、人間としての僕は、帰る場所を持っている。

クロスカントリーは、いつから“勝者を称える競技”になったのだろう。

その問いに、まだ答えは出ていない。

ただ、ひとつだけ確かなことがある。

スキーは、最初から逃げるための道具だった。

逃げて、生き延びて、また次の冬を迎えるためのものだった。

僕は、その原点を、もう手放さない。

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― 新着の感想 ―
とても静かで、深い着地のある回でした。「靴みたいなもの」「帰れたかどうかだけ」という祖母の言葉が、これまでの違和感をやさしく回収していて胸に残ります。勝利ではなく生存としての速さ、才能ではなく受け継が…
本作でもっとも温度のある章。 祖母の語る言葉は説明ではなく、生活の重さそのものです。 「スキーは靴みたいなものだった」という一文に、この物語の核心があります。 勝敗のない世界、生きて帰れたかどうかだけ…
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