13 香りが呼び覚ますもの
アン達従業員と一緒に暮らし始めて二ヶ月ほど経った。
民間シェルターと隣接する食堂のお手伝いをする毎日はとても穏やかで、王都での事件もニキアスとの婚約解消も遠い世界の話のような気がし始めていた。
お休みの日は屋敷に戻ってお母様やアレックスと一緒に過ごす。
「レーネ、お肌も髪も手入れしていきなさい!」
帰る度にケアを怠っていることがお母様にばれてしまい、注意を受けてしまう。
「せめて、毎日ハンドクリームを使って」
と懇願されて、高級ハンドクリームを渡されてしまった。
確かに裏方で炊事や洗い物をやっているから、手が荒れてしまうのよね。
ありがたく高級クリームたっぷりとつけさせてもらいます。
残っててよかった前世の主婦のスキル。残り物からメニューを考えるのは得意なの。
賄いはお任せあれ、ということで、食堂や民間シェルターで働いている従業員のお昼ご飯を作る仕事は私が担っている。
「お嬢様、今日の賄いはなんですか?」
「今日は卵たっぷりチャーハンよ」
「……チャーハン?」
「美味しいから!楽しみにしてて!」
今日の賄いは、半端に残っているお肉やお野菜で炒飯を作ろうと思う。
この世界にはお米があった。貴族間には流通していないのだけど、安い穀物の一つとして庶民には流通しているが調理の仕方を知らない人が多くて食べたことがない人が多い。
初めて口にした時は懐かしくて嬉しくて泣きそうになったのを覚えている。
もっとお米の美味しい食べ方を広めよう!と、日々賄いで使って料理人達に食べ方を伝授している。
「この料理もすっごく美味しいですね!」
「お店にも出せるんじゃないですか?」
「オムライスっていうのも美味しかったですけど、このチャーハンっていうのも美味しいです」
ふふふ、やった。みんなのお口にあって何より。
「今度カレーライスを作ってみようかな」
「なんですか?そのカレーライスって」
「うん、香辛料をたくさん使った香り高いスープご飯……みたいなものよ」
「是非食べてみたいです!」
「本当?それなら後で市場に香辛料を見に行くわね」
「それなら、ちょうど昨日南方の国から船が着いたみたいで、大きな市場が立ってますよ。お嬢様が探している香辛料も見つかるかもしれないですよ」
南方……ふと、エイダ様と飲んだお茶を思い出す。
「お嬢様?顔色が悪いですが……大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ありがとう」
エイダ様とは、手紙で簡単な近況のやり取りはしている。まさか、市井でがっつりと働いてるなんて言えないので、領地経営を手伝ってます、っていう言い方にしているけど。
「お嬢様、もうすぐキーデルが帰ってくるので護衛として連れて行ってください」
「助かるけれどいいのかしら。せっかくのお休みなのに」
「むしろ、お嬢様の護衛ができる機会を潰した方が怒られてしまいますよ」
アンの笑顔にレーネも頷かざるを得なかった。
+ + + + + + + +
「レーネ様、人が多いので俺から離れないでくださいね」
キーデルがレーネを人混みから守るように体を近づける。
「今日はいつもより人が多いわね」
「昨日何隻かの船が入港したので、市場が賑わっているんですよ」
「キーデルも折角来たのだから何か買いたいものはないの?」
初めて会った時は、一つ下の背が小さくて可愛らしい少年だったキーデルも、あっという間にレーネの身長を追い抜かした。今は伯爵領の騎士団に入団して逞しくなっている。
「俺はこうやってレーネ様の護衛ができるだけで十分です」
キーデルが照れたように笑った。
あんな小さな子が立派になって……としみじみとしてしまう。
「本当?じゃあ途中で何か欲しいを見つけたら教えてね」
「レーネ様は何をお探しですか?」
「香辛料が欲しいの」
「それならあちらの方ですね」
キーデルに案内された一角には、南方から到着した船からの品を扱う店が並んでいた。
見慣れない食材や目新しい色の織物が並ぶ中、ようやく香辛料を扱っている店を見つける。
「お嬢さん、何を探しているんだい?」
「えっと……」
ターメリックやクミンなどこの世界でなんて名前で呼ばれているのだろう。
きょろきょろと店内を見渡すと、色や形からそれっぽい!と思われるものを幾つか見つけた。
「ねぇ、香りを嗅がせてもらってもいいかしら?」
前世の香りの記憶を探りながら、香辛料を幾つか見繕う。
(うん、これだけあればカレーが作れるはず)
ほくほくした気持ちでお店のおじさんから香辛料を購入した。
カレーの味を思い出し、無性に食べたくなってきた。
やっぱり国民食なだけあるわよね。早く食べたいな。材料もあるし、今から作っちゃおうかな。
「たくさん買ってくれたから、お嬢さんにこのお茶の葉を分けてあげるよ」
「お茶の葉?」
「前回南方の船から買い付けた時に、多めに注文を受けたから今回も大量に仕入れたんだ。でも今回はもういらないって言われてしまって余ってしまったんだよ。飲んでみて気に入ったらまた来てよ」
渡された袋に入っている茶葉の香りを何気なしに嗅いでみた。
(この香り!!)
一瞬であの苦しかった記憶が呼び起こされる。
──お茶を一口飲んだら目の前が暗くなって喉が焼けるように痛くて……
体の平衡感覚が失われたかのように目がまわり、足に力が入らなくなって自分が立っているかどうかさえわからなくなる。息ができなくて胸が苦しい。
「レーネ様!」
キーデルが呼ぶ声が聞こえるのに、体に力が入らなくて声の方を向けない。
……助けて。
背中に、レーネの体を支えてくれる温かいものを感じると同時に大きなものに包み込まれ、ぎゅっと何かに押し当てられる。
息苦しかった胸の痛みがだんだんと落ち着いてきた。
「姉様!」
ん?アレックスの声?
息が楽になって、意識がはっきりとしてくると、自分が誰かに抱きしめられているのがわかった。
え?だれ?アレックスってこんな体大きかったかしら。
顔を上げると、二ヶ月前に公爵邸で会った時よりも精悍さが増した端麗な顔がレーネを見下ろしていた。
懐かしいアイスブルーの瞳にレーネが映っているのが見えて、思わず息をのむ。
──どうして?
「姉様、大丈夫ですか?」
横から聞こえるアレックスの声の方を向くと、不安そうな顔でレーネを見つめていた。
「アレックス!」
温かな腕の中から抜け出してアレックスの方へ手を伸ばした。
アレックスがレーネを受け止めて抱きしめてくれる。
アレックスにしがみついていると、漸く人心地が付いたようだった。
恐る恐る横を見ると、悲痛な表情を浮かべたニキアスがレーネを見つめていた。
──幻じゃなかった。
どうしてここにニキアスがいるの?
どうしてアレックスと一緒に?
「どうして?何が起こってるの?」
「後でちゃんと説明しますね」
アレックスが宥めるように私に言うと、ニキアスに向いて頷いた。
ニキアスが私が落としてしまった茶葉の入っている袋を拾って香りを嗅いだ後、店主に尋ねる。
「前回買い付けた時に、この茶葉を注文したのは誰だったかわかるか?」
店主は目の前で起こったことに呆然としていた様子だった。貴族然としたニキアスと領主の息子のアレックスが自分の方を向いていることに気づいたのか、我に返ったかのように慌てて答えた。
「セーニ商会です」
……セーニ商会。
最近王都で販路を広げてきた新興の商会だ。
お父様の名前で私が動かしている商会の顧客や取引先に熱心に売り込んでいたと聞いている。
私の商会に喧嘩を売るような遣り口で気にしていたのだけど、まさか伯爵領の市場からも買い付けていたなんて。
(どういうことなの?)
「お姉様、とりあえずここから離れよう」
アレックスの言葉に頷くだけで精一杯だった。
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