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75 好きにならずには、いられなかった

「豊穣祭……か。さすがは大国エルンスタール。催しも壮大なのね」


 いつものように現れたアーベルからもたらされた次の選考の情報に、エルゼはぽつりとそう呟く。

 そんなエルゼを見て、アーベルは遠慮がちに口を開いた。


「……気乗りがしませんか」

「いいえ、そんなことないわ。ただ……」


 選考となれば、否応にでもリヒャルトと顔を合わせることになる。

 ……いったいどんな顔をすればいいのだろう。

 愛する祖国やそこに暮らす者を守るためには、エルゼは嘘をつき続けたままリヒャルトの皇妃を目指さなくてはならない。

 そう、わかってはいるのだが……。


(実際にリヒャルトの姿を目にすると、どうしていいのかわからなくなる)


 定例のお茶会などでリヒャルトの姿を目にすることはあったが、彼の母と妹が亡くなるきっかけとなったのが自身と同じ「先詠み」だという事実を知って以来、エルゼは以前のように彼に話しかけられなくなってしまった。

 エルゼの方から近づいていかなければ、リヒャルトもわざわざエルゼのことを気にかけたりはしない。

 これが自分たちの距離なのだと思い知らされたようで、エルゼは更に気落ちしていたのだ。


「……ねぇ、アーベル。人に嫌われたり、憎まれたりするのは恐ろしいことなのね」


 今までエルゼは、故郷で皆に守られて育ってきたのだと嫌ほど思い知った。

 あののどかな国では小さな喧嘩や言い争いこそあったものの、エルゼのことを本気で嫌ったり憎んだり、ましてや殺そうとする者など誰もいなかったのだから。


「私はその人のことが好きだけど、近づけば近づくほど相手を傷つけてしまうかもしれない。苦しませてしまうかもしれない。そう思うと……どうしていいのかわからなくて、動けなくなるのよ」


 エルゼの双肩にはマグリエルの運命がかかっているのだ。

 たとえリヒャルトがどう思おうとも、嘘をついてかれの皇妃の座に収まらなければならないことはよくわかっている。

 でも、その偽りはいずれリヒャルトを不幸にするだろうと思わずにはいられないのだ。

 ……いっそ、好きにならなければよかった。

 そうすれば、彼が苦しもうがこちらを憎もうがこんな風に苦しむことはなかったのに。


(リヒャルト……)


 いずれマグリエルを滅ぼし、エルゼを殺すであろう死神。

 燃え盛る城も、彼に刃を向けられた時の恐怖や絶望もはっきり覚えている。

 だが、それでも――。


(好きにならずには、いられなかった)


 悲しい過去によって凍り付いたその心の内側に、確かな優しさが息づいていることを知ってしまったから。

 もっとその心に触れたい。こちらを見てほしい。笑ってほしい。

 そう思わずにはいられないのだ。


「……エルゼ王女」


 アーベルに呼びかけられ、エルゼははっと我に返る。


「ごめんなさいアーベル! ちょっとぼぉっとしてて……」

「いえ、私のようなものが生意気なことを申し上げますと、エルゼ王女のそのお気持ち、よくわかります」

「えっ……」


 ぱちくりと目を瞬かせるエルゼに、アーベルは分厚い眼鏡の奥から物憂げな視線を向けた。


「私にも……どう接すればいいのかわからない相手がいるもので」

「それってもしかして恋人!?」


 意気揚々と身を乗り出すエルゼに、アーベルは苦笑しつつ首を横に振った。


「いいえ、残念ながら。恋人でも意中の相手でもありません。なんというか、親族……ですかね」

「そうなの……身内に複雑な関係の相手がいるのは大変ね」


 エルゼは素直にそう口にした。

「先詠み」という特殊な一族であるが、エルゼと家族との仲は良好だ。

 身内にどう接すればいいのかわからない相手がいるというのは、想像するだけでやりにくいことこの上ないだろう。


「……私の存在そのものが彼を苦しめるということはわかっている。謝って、償って、彼の気が済むなら何度だってする。だが……現実はそうじゃない。世の中にはどうしようもないこともある。私が何をしようとも、彼の心が救われることはない。だからこそ……苦しいんです」


 アーベルの重々しい声に、エルゼはごくりと息をのんだ。


 ……アーベルという人物は、実直で、真面目で、どこかつかみどころのない青年だ。

 エルゼはアーベルのことを信頼している。

 彼はいつも親身になってエルゼの話を聞いてくれる、優しい人物だ。

 もちろん仕事ぶりも問題ない。

 だが時々……彼という存在を蜃気楼のように感じてしまうこともある。

 アーベルは目の前にいるのに、どこか遠いところにいるように感じられるのだ。

 どうしてそう思ってしまうのかはわからない。

 だが、今初めて……エルゼはアーベルという人間の真髄を垣間見たような気がしたのだ。

 彼はきっと、エルゼが思いもよらない重いものを抱えているのだろう。

 もしもアーベルが望むのなら、エルゼは彼の力になりたい。

 アーベルがいつもエルゼのことを支えてくれるように。


(でも……)


 今のアーベルの声からは、はっきりとこちらに対して一線を引いているのがわかった。

 アーベルの抱える問題は、きっとアーベルと彼と複雑な関係にある相手にしか解決できないのだろう。


「……アーベル」


 だが、それでも。

 エルゼは声をかけずにはいられなかった。


「その、私なんかがおこがましいとはわかってるけど……私にできることがあったら何でも言ってね!」


 エルゼは先ほどまで自分自身が沈み込んでいたのも忘れ、そう励ましの言葉を口にしていた。

 アーベルは一瞬、驚いたように目を見開いた。

 彼はすぐに感情を隠すように目を伏せ……次に顔を上げた時には、柔らかな笑みを浮かべていた。


「……ありがとうございます、エルゼ王女」

「ううん、私こそありがとう」


 エルゼが礼を言うと、アーベルはきょとんとした表情になる。

 そんな彼を見て、エルゼはくすりと笑った。


(皆、それぞれの悩みを抱えている)


 悩んでいるのはエルゼだけではない。

 皆それぞれ、大小はあれどもそれぞれの悩みを抱え生きているのだ。

 そう思うと、何も解決していなくとも少しだけ心が軽くなったのだ。


(今はとにかく、次の選考のことを考えないと)


 まだはっきりと決心がついたわけじゃない。

 だがここでうじうじして立ち止まるわけにはいかないのだ。

 故郷の皆のためにも、リヒャルトのためにも。


(私は進み続けるしかない)


 アーベルとの会話で、図らずとも気分が上昇した。

 晴れやかな表情を取り戻したエルゼを見て、アーベルは嬉しそうに笑う。


「やはりエルゼ王女には笑顔が似合いますね」

「もぉ! おだてたって今日のおやつくらいしか出ないわよ!」

「出るんですか……」


 そろそろシフォンとティータイムをしようと思っていたのだ。

 どうせならアーベルにも同席してもらおう。


「あなたさえよければティータイムをご一緒にいかが? 次の選考の話もじっくり聞きたいし」

「えぇ、僭越ながらご一緒させていただきます」

「やった! シフォン! おやつの時間よー!」


 ピィー! とシフォンを呼ぶための指笛を吹くと、すぐに外で遊んでいたらしいシフォンが窓からひょこりと顔をのぞかせた。


『あっ、アーベルもいる!』

「そうよ、今日は一緒なの。にぎやかでいいでしょ?」


 うきうきした様子のエルゼを見て、アーベルはくつくつと笑った。


「不思議ですね。あなたの笑顔には不思議な力を感じます」

「……もしかして今日のおやつにすごく好きな物でもあった? そう遠回しに言わなくてもアーベルに回すわよ」

「いえ、そうではなく……」


 アーベルはこほんと咳ばらいをすると、そっと口を開く。


「やはり変えられるとしたら、あなたしかいないと思って」


 そう呟いたアーベルの声があまりにも真摯で、エルゼは思わずデザートを用意する手を止めてしまった。


「え……?」

「すみません、独り言です。ただ……」


 アーベルは何か言いよどんだ後、縋るような目をエルゼに向ける。

 まるで、そこにしかない希望や救いを探すように。


「エルゼ王女がいつも笑顔でいてくださるのが、私の望みです。……きっと、それで救われる者もいるはずですから」


 そう言ったアーベルがどこか悲しそうに見えて、エルゼはとっさに手元のクッキーを彼の口へ詰め込んだのだった。


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