66 それを、恋と呼ぶのなら
「ぇ…………?」
この状況が信じられずに呆然とするエルゼに、リヒャルトは少しかすれた声で囁く。
「……お前を見ていると、俺はおかしくなる」
思わずどきりとしたエルゼに、彼は続けた。
「心が搔き乱され、自分が自分ではなくなるような気がしてならない。……お前だけだ、俺をこんな風にするのは」
「リヒャルト殿下……」
彼が吐露した心のうちに、エルゼの胸は締め付けられる。
そっと腕を彼の背中に回すと、温かなぬくもりが伝わってきて泣きそうになってしまう。
「……私の存在は、あなたを苦しめていますか?」
おそるおそるエルゼはそう問いかけた。
だがリヒャルトは、エルゼの言葉をはっきりと否定した。
「いや……これは、不快な感情ではない……はずだ」
どこか自分自身でも戸惑っているような彼の言葉に、エルゼは嬉しくなった。
過去の悲しい出来事から、リヒャルトはずっと心を凍らせてきた。
でも今、再び時計の針が動き出そうとしているのだ。
……自惚れてもいいのなら、そのきっかけとなったのがエルゼなのだろう。
そう考えるだけで、胸の内に歓喜が押し寄せる。
エルゼはリヒャルトの背に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
「……私と同じですね」
「同じ、だと?」
「えぇ、私もあなたと一緒にいると……胸がどきどきして、頭がぽぉっとして、自分が自分じゃないような変なことをしちゃうんです」
それを、恋と呼ぶのなら。
エルゼは初めてこの感情を抱いたのがリヒャルトでよかったと心から思った。
少し体を離したリヒャルトがじっとエルゼのことを見つめる。
エルゼも頬を紅潮させながら、彼を見つめ返した。
やがて、リヒャルトはそっと口を開いた。
「……まるで病気だな」
「ふふ、お互い様ですよ」
きっと、あと一歩。
あと一歩踏み出せば、世界は変わるのだろう。
だが、無理に急ぎたくはなかった。
ただでさえリヒャルトの長いこと凍らせていた心が少しだけ動き始め、世界が色づこうとしているのだ。
今は、その変化をゆっくり見守っていたかった。
互いの体温が伝わるほどの距離で、エルゼはリヒャルトに微笑みかける。
「ねぇ、お話をしませんか?」
「何の話だ」
「いろいろです。好きなこととか、好きな食べ物とか、家族の話とか……」
もっともっと、彼のことを知りたいと思った。
却下されるかとも思ったが、意外なことにリヒャルトは何も言わない。
それをいいことに、エルゼは勢いよく話し始める。
「実は私、甘いものが大好きなんです! 故郷ではクルミのタルトやアップルケーキを毎日に用に食べてました。一回かなり太っちゃったことがあって、それまでのドレスが入らなくなって大変なことに――」
リヒャルトはじっと黙ってエルゼの話を聞いている。
彼の纏う雰囲気から、彼は比較的リラックスしているのがわかったのでエルゼは続けた。
「エルンスタールに来て、すごくお洒落でしかも美味しいお菓子がたくさんあるのに驚きました! あまりにも美味しいから、こっそり部屋にも持って帰っているんですよ。そのうち持ってきたドレスが入らなくなったらどうしようって心配なんですけど、あっでもエルンスタールの女性ってみんな細くて綺麗ですよね。どうやってあの体型を維持しているのかしら……」
リヒャルトの視線がエルゼの腹回りに移ったのがわかり、エルゼはふふっと笑った。
言葉は少ないけれど、彼はちゃんとエルゼの話を聞いてくれている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「私のお姉様もすごく細くて綺麗なんですよ。あっ、私って兄と姉がいる末っ子なんです。弟か妹が欲しいってずっと思っていたから、ルイーゼ皇女とお会いすると可愛くてたまらないんです! ふふっ」
……リヒャルトにとっては少々不快な話だったかもしれない。
口に出してからエルゼはそう思って慌てたが、リヒャルトは存外穏やかな顔をしていた。
……今なら、もう少しだけ踏み込めるかもしれない。
エルゼはごくりと息をのみ、そっと口を開いた。
「……よろしければリヒャルト殿下のお話も、聞かせてはいただけませんか?」
拒否されるかもしれない。この穏やかな空気を壊してしまうかもしれない。
だが、それも覚悟の上だった。
リヒャルトは何か考えるようにじっと黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。




