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46 遠くて近い夜

「事件の後、あの教会は放棄された。もともと辺鄙な場所に建っていたこともあり、今では誰も寄り付かない忘れられた場所だ。……だが、俺は」


 背後から聞こえてくるリヒャルトの声に、抑えきれない感情が滲む。


「あの事件が風化して、なかったことになるのが耐えられなかった。たとえ俺一人でも、二人のことを決して忘れはしないとあの場所に通い続けていた。……そんな中、事情を知らなくても二人のためになにかしてくれたのはお前だけだ」


 リヒャルトの言葉に、エルゼの心が大きく揺れる。


「俺はまだ、教会の中にまで足を踏み入れる決意ができていなかった。……お前が来るまでは」


 教会の傍に、一人佇んでいたリヒャルトの姿が脳裏に浮かぶ。

 あの時は何も知らなかった。

 ただ彼を、いずれ故郷を滅ぼす冷酷無慈悲な人間だと恐れていた。

 ……彼が心の中で、どんな苦しみを味わっていたのか知りもせずに。


(私、私……なんてひどいことを……)


 自身の無知を、想像力のなさを恥じるエルゼに、リヒャルトはぽつりと告げる。


「……妹は、ルイーゼと同じく小さな動物が好きだった。お前が廃教会に動物を集めてくれたことで、きっと喜んだはずだ。…………俺からも、礼を言う」


 その言葉で、必死に押しとどめていた感情の波があふれ出してしまった。

 様々な感情がぐちゃぐちゃになって、涙と嗚咽が止まらなくなってしまう。

 いきなり泣き始めたエルゼに、背後のリヒャルトが動揺したのがわかった。


「……なぜお前が泣く」

「ぐすっ、だって……リヒャルト殿下がそんな悲しみを抱えていたなんて……」


 言いたいことはいろいろとあるのに、頭と心がぐちゃぐちゃでうまく言葉にならない。


「……泣くな。泣くと水分と体力を無駄に消費する」

「うぅ、でも……」


 止めようと思って止まるものではないのだ。

 本当に泣きたいのはリヒャルトのはずなのに。今も、彼の深い悲しみが伝わってくるのに。

 リヒャルトは決して涙を流さない。

 まるで彼の分まで泣いているかのように、エルゼは涙が止まらなかった。

 背後のリヒャルトが、大きくため息をつく。

 呆れられただろうかと、そんな考えがエルゼの頭をよぎったが――。


「え? ……ひゃあ!」


 背後から肩に触れられたかと思うと、ぐい、と強く引き寄せられる。


「!?」


 気が付けば、エルゼの体はリヒャルトの腕の中に収まっていたのだ。


「……そんなに泣くな」


 どこか困っているような、呆れているような……それでも、深い優しさが感じられる声だった。


「昔……母がよくこうしてくれた。妹は泣き虫だったが、こうすると泣き止んだ」


 正面からエルゼを抱きしめ、リヒャルトはぽつりとそう告げる。


「決して振り返らない」という言葉を、彼は破った。


 だが、エルゼはそうまでしてリヒャルトがこちらのことを気遣ってくれたのが嬉しかった。


(彼は、冷酷な人間なんかじゃない。深い悲しみの奥底に、確かな優しさが息づいているんだわ)


 ぴったりと肌を合わせたことで、よりそう感じることができる。

 エルゼはぎゅっと彼の背にしがみついた。

 ……リヒャルトがそれを拒絶することはなかった。


(悲しみに包まれたままのリヒャルトの心を救いたい。少しでも、彼の慰めになれたら……)


 この時ばかりは未来で起こる悲劇も、自身の立場も差し置いて、ただただそう思った。

 体温と同時に伝わってくる彼の悲しみを受け止めながら、エルゼはただずっと、目の前の体にしがみついていた。




 チチチ……と鳥の声が聞こえ、エルゼはゆっくりと目を覚ます。


「…………あれ?」


 ここはマグリエルの自室ではない。花嫁候補に与えられた部屋でもない。

 頭上に広がるのは優雅な模様の描かれた天井……ではなく、無骨な岩の洞窟だ。


(あれ、私……そうだ。湖に引きずり込まれて溺れて、それをリヒャルトが助けてくれて――)

「っ……!」


 そこまで思い出し、エルゼは慌てて飛び起きた。

 固い地面に転がっていたせいで体の節々が痛んだが、今はそれどころではない。


(私、いつの間に寝ちゃったの!?)


 リヒャルトの悲惨な過去の話を聞き、思わず泣き出してしまったエルゼを彼は抱きしめてくれた。

 そのまま彼と抱き合うような形で、エルゼは泣き続けて……。


(もしかしてそのまま寝ちゃった!? そんな……恥ずかしすぎる!)


 エルゼは両手で頬に触れ、真っ赤になった。

 まさかリヒャルトの前でそんなにみっともない姿をさらしてしまうとは一生の不覚。


(はぁ、穴があったら入りたい……。ここも洞窟だから似たようなものかもしれないけど……)


 そんなことを考えていると、洞窟の外から足音が聞こえてくる。

 見れば、リヒャルトがこちらへ歩いてくるところだった。


「リ、リヒャルト殿下!」


 エルゼは慌てて飛び起きると、しどろもどろになりながら弁解する。


「えっと、昨晩はですね。大変見苦しい姿を晒してしまい申し訳ございません……」


 よだれなど垂らしていなかっただろうか。変な寝言を言っていなかっただろうか。

 考えれば考えるほど、心配は尽きない。

 リヒャルトは冷たい言葉を返してくるかと思いきや、何故か気まずそうに目を逸らしてしまった。


「リヒャルト殿下……?」


 おずおずと声をかけるエルゼに、彼は視線を逸らしながら呆れたように告げる。


「その前に服を着ろ」

「え…………? きゃあぁ!!」


 彼に指摘されて初めて、エルゼは自身が下着姿のままだったことに気づいた。

 昨晩は暗かったのと彼に聞かされた話が衝撃過ぎてそれどころではなかったが、エルゼはこの格好でリヒャルトと抱き合っていたのだ。


(うわあぁぁぁぁ!!)

「も、申し訳ございません! すぐ着ます!!」


 パニック状態になりながら、わたわたと乾かしてあったドレスに袖を通す。

 一晩火の傍に置いておいたのがよかったのか、身に着けてもさほど不快感はない。

 ドレスを着たエルゼがちらりと視線をやると、リヒャルトはエルゼに背を向けるようにして外を見ていた。

 彼のその気遣いに、エルゼの心は温かくなる。


「あの、着替えましたのでもう大丈夫です」


 念のため申告すると、リヒャルトはゆっくりとこちらを振り返る。

 エルゼがきちんとドレスを身に着けているのを確認し、彼は安堵したようにため息をついた。


「……湖に救助の船が出ているのが見えた。狼煙を上げておいたので、じきにここにたどり着くだろう」

「よかった……。私たち助かるんですね!」

「当たり前だ。招集した花嫁候補が選考の最中に命を落とすことなどあってはならない」


 選考にはまったく興味がなさそうなリヒャルトだが、ちゃんとそのあたりの意識はあったようだ。


(だったらもう少し不正を取り締まってほしいところだけど……これだけ大きな国となるとそうもいかないのかしら)


 組織が大きくなればなるほど、癒着や汚職はついて回るものだと教えてもらったことがある。

 エルンスタールほどの大国ともなれば、数多の陰謀が渦巻いていることは想像に難くない。


(でも、私は負けないわ)


 祖国を、大切な人たちを守るために。

 それに……。


(あなたの心に寄り添いたい。支えになりたいと思ってしまったから)


 湖の向こうを眺めるリヒャルトの横顔を、エルゼはそっと伺い見た。

 今は「いずれ祖国を滅ぼすであろうエルンスタールの皇子」としてだけではない。

 リヒャルト自身のことを知りたい、もっと心を開いてほしいと思っているのだ。

 狼煙に気づいたのか、救助の船が近づいてくる。

 喜ばしいはずなのに、エルゼは二人きりの時間が終わってしまうのを少し寂しく思わずにはいられなかった。


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