迫りくる神の手
サングレール聖王国、スピキュール教区。
そこはハルペリア征西における最先鋒であり、最大規模のタカ派を抱える教区であった。
サングレールに豊かな土地を。その信念のままにハルペリアと戦い続け、土地の奪い奪われを続けて数百年。だが結局のところ、サングレール聖王国は山岳地帯を越えた向こう側を支配することができずにいた。
理由は複数ある。
ハルペリアの国力そのものが高いこと。
平地での運用に長けた騎馬兵がハルペリアに揃っており、サングレールが不利であること。
そして近年で言えば、シュトルーベの亡霊をはじめとする詳細不明な魔物の影響も大きい。
豊かになり続けるハルペリア王国に反し、サングレール聖王国は痩せこけたまま、徐々に差をつけられている。
スピキュール教区内のタカ派らも、最近は全く勢いがない。平野部を手に入れるという悲願は、もはや遠い夢の話であるかのように思われていた。
「……断罪のボルツマンからの連絡は、途絶えたまま。奴が裏切るとは思えぬ。だが、向こうで討たれたという情報もない……」
「熱心な騎士であったが……彼はまだ若い。先走りすぎたな……」
「思えば兆候はいくらでもあった。しかし我々には引き止めることも」
スピキュール教区の神官たちは、サングレール聖王国の中でも特に恵まれている。
豊かな衣食住が保証されているのは、最先鋒で戦う敬虔さが認められてのことだ。だがそれには実績が伴わなければ風当たりは強くなってしまう。短期間でもハルペリアの土地を占領できれば国民向けのアピールにもなるのだが、近年はそれすらない。直近のトワイス平野の会戦でも目に見える成果はなかった。
神官たちは、焦っていた。今の状況を変えるためならば、外交官として出向いたアーレントの始末という強硬手段さえ、本気で考える程度には。
このままハト派の筋書き通りに両国の関係が修繕されてしまえば、スピキュール教区の立場は一変するだろう。それだけは避けなければならなかった。
「……ハルペリアは永遠の敵。手を結ぶなどありえぬ。決して、あってはならぬ」
「ガティアン神殿長」
金彩の豪奢な椅子に腰掛けた、一人の老人がいる。
ガティアン神殿長。彼はこのスピキュール教区を管轄する長であった。
かつて聖堂騎士として前線で戦い続けて来た彼も今や齢六十を越えているが、深い皺の刻まれた厳しい表情はかつての迫力を失っていない。
「ボルツマンはわからぬ。だが、今はわからぬまま判断を保留できる状況にはない」
「……動かねばならないと?」
「拙速を尊ぶ時だ。ボルツマンのような結果になろうともな」
ボルツマンは、“白頭鷲”アーレント暗殺のために極々少数の勢力を連れてハルペリアへと潜り込んでいった。その判断を愚かとは言えない。そのくらいの行動力がなければ、スピキュール教区そのものが危うい状態にあるからだ。
「……フラウホーフのハト派はかの白頭鷲を使者として送り出し、スカイラブ教区の連中もそれに呼応している。首都の聖王フレアも、今ではスカイラブ教区に押さえられている」
「ああ……嘆かわしい。聖王はわかっておられない。ハルペリアとの国交など……」
「モートン教区も芳しくありません……ハルペリアの湾岸都市アーケルシアが、カッコウ派の手を振りほどいて旗色を鮮明にしたとのこと。モートン教区での交易に影響が出ると……」
「ぬぅ……アーケルシアがこの期に及んで動きを変えてきたか……」
「いや、モートン教区も大事だが今はハト派だ。……どうにかして、もはやこの際強引にでも良い。“白頭鷲”を始末し、流れを変えねば」
「だとすれば……やはり“日陰者”から刺客を放つしか」
「しかしボルツマンほどの腕を持つ者はそうはいないぞ……」
「それでも誰かを選び、送り込まねば」
「それには及ばぬ」
ガティアン神殿長の言葉に、その場にいる神官たちが一斉に注目した。
「既にサルバドールを向かわせた」
「なっ……!」
「それは……おお……聖堂騎士最強格の彼が、ついに……」
「あの“後光のサルバドール”が動かれるとは」
サルバドール。その聖堂騎士の名はスピキュール教区では特に神聖視されている。
フラウホーフの“白頭鷲”と同じく、スピキュールにおける武の英雄であった。
「サルバドールには長く“日陰者”の教導を任せておったが……ボルツマンのこともあり、気が変わったそうでな。直々に出向くそうだ。奴は“耄碌した白頭鷲を始末する”と語った」
「……サルバドールならば」
「ああ、サルバドールならばできる。あの方ならば……」
「聖堂騎士最強の剣士、我が懐剣サルバドール。奴の剣にかかれば……サングレールとハルペリアの間に絡まる醜い国交の糸など、瞬く間に切り裂いてしまえるだろうよ」
神殿に渦巻く陰謀は、淀みの中で翳りを増す。
変化を許容できないスピキュール教区の神官たちは、隣国に送られたサルバドールの刃に強い期待を抱いている。
邪魔者を殺し、状況を変える。それが彼らスピキュール教区の本質であり、魂にまで染み付いた習性であった。
「もうじき、太陽が昇りますね」
レゴール方面に向かって走る乗り合い馬車の中で、一人の男が呟いた。
まだ薄暗い明け方に出発した馬車に、ようやく陽の光が当たり始めたのである。
「太陽神ライカールは今日も大地を、人々を照らしている……」
男は奇妙な格好をしていた。
全身を神職者のローブに包み、長手袋とブーツによって一切の肌を露出させていない。その上、衣装のあちこちを装飾品で飾っているから、非常に目立っていた。
だがそれ以上に、彼の顔。現代でいうところのペストマスクに似た大きい鳥のマスクが、何よりも人目を引く。
彼が傍らに置いている大荷物が霞んで見える程度には、異質だ。
「……なあ、兄さん。あんたその格好は……なんだ、神殿に勤めている方なのかい」
乗合馬車であるから、同じ空間に客はいた。だが朝の非常に早い時間だったからか、乗っている人数はそう多くはない。嫌でも目に付いてしまう個性的すぎる鳥男に対して、そんな質問が出るのも仕方のないことだろう。
「ええ、まあ……遠からずといったところです」
「顔まできっちりと覆い隠しちまって、窮屈じゃないのかい」
「窮屈などと思ったことはありません。これは、私にとって必要だからやっているのです」
「必要……?」
鳥面の男は指でマスクを叩き、短く笑った。
「なに……ただ、世の中には日陰の中でしか生きられぬ者もいる、というだけの話ですよ」
馬車の外は段々と明るさを増し、遠景の輪郭がよりはっきりと見え始めてきた。
どこまでも続くハルペリアの広大な農地。名もなき耕作地は、馬車で走り続けていても延々と続いてゆく。
「……本当に、豊かな土地ですね」




