53.シン世界転生(中)
「のう、月兎よ」
《はい、アルジさま》
〈首のない巨人〉の頂きにて、言葉を取り戻した積陰月霊大王は、少女の口を借りて月兎に語りかける。
「ヒトとはなんと醜い生き物かの」
《はい、おっしゃるトオりです》
「古今ヒトは月にあまたの願掛けをしてきた。己れの荷にかちすぎる身の程知らずの欲もたくさん言ノ葉に紡がれてきた」
《はいはい》
《ほんとにミのホドシらずで》
「余はそのすべてを見守ってきた。もちろんヒトはか弱い生き物じゃ。不本意ながら過激な戯れ言も吐くであろう。しかしそろそろ思い出させてやらねばならん。言霊とは、口ずさんだものに跳ね返ってくるのがことわりなのだ、とな」
《おっしゃるトオり!》
《おっしゃるトオり!》
積陰月霊大王は蛙のような指先で、月兎に行くべき場所を指し示す。
その先には地上六三四メートルの塔が建っていた。
「ゆくぞ。この国の忌まわしき記憶を解き放とうではないか」
《ギョイ!》
《ギョイ!》
月兎が消える。そして飛び立つ。
〈首のない巨人〉がふたたび歩を進めようとする。
「やはりアマテラスの一族に世を任せたが失策じゃったわい」
積陰月霊大王は、そう独りごちた。
※
槍の殴打を喰らって横転した平田啓介は、かつての親友の顔を見た。
その男──大国忍の顔は暗い。
満身創痍の身体を引きずって、片手で踏ん張る。身体を起こそうとするのを、相手は待つだけの余裕があった。
「なんでこうなっちまうんだよ」
絶望的な声──それが、平田の口から溢れる。
「さあな。なんでだろうな」
大国忍の声は重い。
その手に握られた火遁槍の穂先に炎が灯った。
「ただ、一回死んでみて思ったのは、おれの人生は間違ってた、てことだ」
「……なんだと?」
「お前のほうが正しかったってことだよ。おれがやってたのは、しょせん偽善だった。自分ばかり大事にして、誰も彼もがヒトを蹴落としたり、見て見ぬふりしたりするような──おれが守りたかったのは、こんな社会じゃなかったんだがな」
黒い潮の中から蘇りを果たした大国忍は、すでに大いなる存在を経由して死者たちの声を聞いている。そのあまりに無数の声の中、大国は自分が死んだことと、死んだ意味について考えていた。
「おれは、ヒトが笑顔になるなら自分一人ぐらいどうだって良いと本気で思ってたんだよ。でも、出世ができないと後ろ指さされ、頑張って時間を作っても家族には愛想を尽かされ、それでも身近な人を助けて、少しでも楽になるなら、笑顔の人間が増えるんだったらと思って、それだけが救いになるかと思って頑張ってきた」
「…………」
「だが、おれの頑張りは無意味だったんだな」
「……ッ!」
平田啓介ははらわたが煮えくり返る想いだった。誰に対しての怒りなのか。堕ちた大国の精神に対する怒りか、それとも「そうじゃない」と言い切れない自分の不甲斐なさに対するものなのか。
すべてだ。その想いすべてが行き場を失って、それでも表に出さなければ仕様のないくらいの激情が、平田啓介という人間を衝き動かしていた。
「ばかやろー、だぜ。ほんとによ……」
銀の弾丸を詰め直す。
大国はあえて待った。
そして平田啓介が構える。
「やるぞ。本気で」
「ああ」
「頼むから、思い出の中でぐらい、きれいごとにさせてくれよ」
「…………」
火遁槍が振り払われた。
銃声が、轟いた。
※
東海林飛鳥の登場によって、人々は急に色めき立った。
横っ面を張られた鼠大怪獣ライゴウであっが、五秒と経たないうちに瓦礫の破片を振り撒きながら身を起こそうとする。
人々はあわてて逃げ出した。安代麻紀、寿遼、榎本輝の三人は、女性自衛官の導きに従ってもう少しだけましな場所を探し求めた。
逃げる群衆に、逆らって飛び込む複数の影がある。
ひとりはガラの悪い男子大学生、もう一人は三白眼のポニーテール。そのほか、着物をまとって盛んに「のじゃ!」と叫ぶ女性と、それらを遠巻きに見ながらタバコを吹かす鹿ヶ谷佐織──
彼らと少年少女は互いのことなどまるで知らない。しかしその交差を通じて、人々は立ち向かう人間の強さを記憶するだろう。
「ここは任せて!」
その声が、だれかの背中を押した。
走る少年少女──安代麻紀はその中で、女性自衛官に声を掛けた。
「御苑!」
「……え?」
「御苑に行くなら、あそこ入った方が近道のはずです」
安代麻紀が指差したのは、瓦礫の山である。しかしその隙間をくぐって時間を短縮できるはずだ。
「でも、あなたがたの身の危険が」
「このままじゃもっと酷いことになる」
「……」
女性自衛官は振り返る。
榎本輝と寿遼は、不安そうにマキを見た。
「紫織もあそこにいる」
安代麻紀は〈首のない巨人〉を──その二百メートル近い黒い巨大な影を指差した。
「もうやめさせないと」
「……いきましょう」
女性自衛官は少年二人を見た。
「無理しなくていいですよ」
「いや、行きます」
「……」
寿遼は黙っているが、離れる気はない様子だった。
「なんか、おれ、わかんねーけど、ほんとはここにいちゃいけない人間なのかもしれないけど、だったら、なおさらなんです」
言葉は不器用だが、彼なりに必死だった。
「ここに生きている理由が、やっぱり知りたい」
「……違うよ。それは、ボクが悪いんだ」
「どういう……」
「ボクが、いや、ボクたちがカミ様に世界を変えてくれと祈ったからなんだよ。あれがそのカミ様なんだ」
寿遼の見る先に、〈首のない巨人〉が音もなく新宿を踏み散らしていく様が映る。
「大人は誰も教えてくれなかった。なんでこの世界には人間の出来不出来があって、怪獣が出てきて、生きることに希望を持ってたはずのヒトがあっさり怪獣に食い殺されて、でも死にたいと思ってる奴には学校行ってもっと頑張れ、て言ってくるのか……誰に聞いても答えてくれなかった。『そんなこと訊くぐらいならもっと頑張れよ』とか、説教する大人なんてどの口が言ってるんだと思ってた」
社会や政治が悪いなんて言説の方が嘘っぱちに聞こえた。
むしろ前世や魂が穢れてると説明された方がしっくり来た。
なぜならそれは他人の話じゃないから。
自分が主人公の物語に語り直されるから。
不正と不平等と不条理があふれる世の中を、そして理由なくぐちゃぐちゃと揺れ動く自分自身を、それぞれ説明するための語彙は、生まれつき誰にも与えられていない。
この空白は、だからこの世に生まれ落ちた時、誰もが抱えているものだ。そしてその空白を満たすために、宗教というものは神の存在を確信する。見えないものの論理を重んじる。
見えないもの、自らの視野に入ってこないもの、主観的で、確信できない数々の、あいまいで、複雑なこと──それらはうかつに口にすればすぐに非難を浴びて、証拠の提示を求められる。しかし自らが存在することの根拠などどこにあるのだろう。この世に生まれ落ちた根拠を、生命の意志だとか胎内記憶だなんて言ったところで意味がない。そんな理屈を持ち出したとたん、徐々に言いがかりのつけられないものこそが崇高なものだと勘違いするようになる。
根拠──理由──原因──絶対的な。
無理に正当化を求めた結果、それは在らざるカミを生み出す。
個々の内側に眠る絶対者──それは自分が自分であることの、生まれてきた意味と理由と、その生と死の価値を決定的なものにしてくれる。誰にもけちをつけられない。だから立派で崇高な、大義のある、不安のかけらもないような拠り所に。
それは、果たして〝救い〟なのだろうか。
「少なくとも、教祖様は答えてくれた。ボクには大人の言い分が、ぜんぶ『自分ごとじゃないんだから関わってくるな』て言葉の高度な言い換え表現にしか聞こえなかった。みんな自分のことで忙しいから、他人にかまけてる余裕がないんだって。ボクはそんな人たちが平気な顔をして生きてる世の中が、社会がとても嫌だった……」
寿遼は顔を上げた。
「でも、きっとそれはカミ様に祈って世界をめちゃくちゃにしてもらっても、変わりようがないことなんだね」
淋しげな表情だった。それは信じていたものに裏切られたものだけが持つ、控えめな微笑みである。
「ボクたちがやろうとしていたことは、いけないことだったんだよ。それがわからないぐらい、ボクはバカだったんだ。だからこれはボクの贖罪なんだよ」
「…………」
榎本輝は、しばらく複雑な表情をしていたが、やがてゆっくり寿遼の肩に手を置いた。
「じゃ、少なくともおれは生き返って意味があったってことだな」
「……ごめん」
涙が出そうになる。安代麻紀が手をかざして寿遼の意識を現実に戻した。
「はい。ストップ。まだ終わってないから」
「ははっ、遼。その通りだ! 早くしようぜ!」
四人は一斉に駆け出した。背後のライゴウと戦うPIROメンバーとの戦いには、見向きもしない。走れば走るほどその騒音は背景に退いて、廃墟と瓦礫のあいだを反響する大きなリズムと化していた。
神虫の落下も少なくなってきた。ふと見上げると、数百と見紛うほどの数もいまや数十までに減っていた。もし立ち止まって見物することができるなら、きっと両手の指を往き来させるだけでその総数を数えられたかもしれない。
だが、そんな余裕は当事者にはない。
うかつによそ見をすれば足を挫きかねない。それほどの足場を飛び越え、折れた鉄骨が地獄の針山のように盲滅法に生えた、廃墟のコンクリートジャングルをくぐり抜け、四人はさらに歩みを進めた。
怪物はいないはずだった。ときどき飛んでくる瓦礫や神虫の死骸などを注意すれば、あとは時間の問題で御苑に戻れるはずなのだ。
道中、四人は悍ましいものを見た。
ヒトの死体である。それも蘇りを果たしたものではなく、寿遼と同様の黒いフードを被った人々──宗教法人あたらくしあの一般信徒として事態に参加していたものたちだ。
その多くは被災による死ではない。何かの薬を飲んだのか、吐血した後が残る。あるいは針山と化した鉄素材に自らの身体を押し付けたものまで、見るも吐き気を催すような、無残な亡き骸が視界に散らばる。
「なんで……なんでこんな」
安代麻紀が息を呑む。
「彼らに生きている価値がないからだよ」
寿遼が答えた。
「あたらくしあの教義は、みんなに『生きてる意味がない』ことを自覚することから始まる。特別な力のある人間だけが生きている価値があって、それを持ってない人間にはせめて前世の罪を晴らすべく〝善いこと〟を続けるしかない──でも、タイムリミットがあるんだよ」
〝決算の日〟。
それはそう呼ばれていた。
「その日が来たとき、前世の罪と今世の善行が秤に掛けられる。ここにいる人たちは──ボクを含めて、その釣り合いが取れないと思ってる人たちだ。だから……」
「だからわれわれの任務を妨害し、事態を混乱させたわけですね」
「……はい」
女性自衛官が話を引き取った。
「しかし、間に合わなかった」
寿遼が俯いた。
ため息が聞こえる。
「やめてほしいな。ヒトが生きてることの理由とか、価値とか、そんなこと、わたしだって答えようがないし、誰が付けたとしても烏滸がましいことだよ。できることなら、そんなことをさせて欲しくもない」
だが、ヒトはそれを欲するのだ。
特に弱きものほど。
あこがれが強いものほど。
「でも、それはわかるかも。アルバイトとかしてると時給で自分の人生の値段、わかっちゃうもんね」
安代麻紀がふと、そんなことを言った。後ろめたい響きがどこかにあった。
「行こう。反省は性に合わない」
女性自衛官が道を指差す。
少年少女は、前に進むしかなかった。




